Organisation Voice 2002/07

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2002/07/28 (木曜日) 

2つの台風に翻弄された、YUSUHARA2DAYS SSERも無事に終了。チャンピオンの池田秀仁は1STで1時間のコースアウト&マシントラブルのストップ。優勝争いはおろかメダルにも手が届かない位置まで後退してしまった。同じく昨年目覚ましい成長を遂げた注目の、固定ゼッケン2を着けた岡本峰も1STのしかもSS1でコースアウト、早々に姿を消してしまった。午後にはあがると思われた雨は、2STの中盤まで残り、近年になく長めに設定されたルート上の参加者を、呻吟させた。こうして18年の歳月を、歴史という重みに変えてSSERは閉幕。この2年ばかりはかなり手狭な太郎川公園での開催だったため、参加者の皆さんとのコミニュケーション不足が気になった。来年からは新しくなった大越グランドで快適に開催される事だろう。さて8月、8年目の大会で幕を下ろすRRMだ。ここにも幾多のドラマがあった。さあ、最後にどんなドラマが待っているのか。毎日の速報体制を整えたいもんだ。


2002/07/28 (木曜日) 

8年目のラリーをもって、ひとまずラリーレイドモンゴルはその歴史に幕を下ろす。さまざまな憶測が飛んでいるのも知っているが、むしろ存在意義のそれなりの大きさがあったんだと、うれしい思いのほうが大きい。
今年を最後とする理由は、いくつかある。なかでも「安全上のもの」が大きい。あのオウムで一躍有名になった旧ソ連製の大型ヘリコプターの問題である。実はこの国にヘリはこいつしか存在しない。平気で70年代製だったりする。それでもジェットヘリだ。電子デバイスはまったくないから、ある意味では安心なんだが、年々その程度は悪くなる。経年劣化というやつだ。バイクなら浅間ミーティングに平気で出られるし、クルマならミッレミリアという手もある。で、こいつが昨年の冬、ついに事故を起した。冷害の取材に飛んで、ラリーでよくコースとして使ったウブス湖の近くで、着陸に失敗して室内の 予備タンクが燃えて、脱出に遅れたNHKのカメラマンと、モンゴル一の金持ち、エルデネットの金鉱山の社長が死んだ。航空当局は(そんなものがあるのか)室内の増設タンクを禁止した。禁止せずに、もっと他に方法を考えればよかったのに、たとえばラリーカーが室内に積むのは、もともと航空機用の防爆タンクなんだけど。そして、この規制によって、フライトレンジが極端に減ってしまった。つまり満タンで飛べる距離が、著しく減ったのだ。なんと2時間400キロである、これではラリールートを延ばすこともできず、緊急で回収してウランバートルに輸送する燃料を残したまま、ラリールート上を監視飛行することができないではないか。
それでもオペレーションが出来ないわけではない。事実、2001年はその制約のなかで、開催しているのだから。やっぱり問題は、空を飛ぶ安全性の限界だ。事故を起したモンゴル航空は、今年5月にヘリコプターを民間会社に売却してしまった。もちろん優秀なパイロットも、その会社に移ったりもしているが、このあとどうやってヘリをメインテナンスしていくのか、ロシア側にはどれだけのパーツの供給が可能なのか、疑問は疑問を呼び、それは図らずも不安に変わる。だいたい主催者が、こうした不安要素などを口にするのはよくない。この手のいかなる主催者も、こうしたネガティヴな発言はしない。唯一我々にその公言が許されるのは、最後だからということではなく、この問題が公然たる事実だからである。しかし、それとて今年で最終回とする絶対の理由でないことは、賢明な大多数は気が付いている。それはまごうことなく、経済的な理由だ。

大会が始まった当初の1995年、スポンサーにも恵まれ、まずは順風満帆の滑り出しを見せた。TVもNHKではゴールデンタイムに放送され、巨人阪神戦の裏番組にして、8コンマ何パーセントだかの高視聴率を収めた、らしい。どうもこの視聴率というのだけは胡散臭くて、その業界に少し首を突っ込む僕としては、何度か説明を聞いたけど、どうしてもいまだによく飲み込めない。こんなもんに右往左往させられるTV関係の人や広告関係の方は本当に気の毒だとしか言いようがない。てな事を平気で言うものだから、ってんではなく、時代は容赦なく費用対効果の時代に入ってくる。「そんなことをして何のメリットがあるのか、幾ら出したら幾ら返ってくるのか。」まあ数年前までは「企業として文化活動やスポーツ活動に貢献する、いわゆるメセナってんですかねえ」なんて言ってた企業の人たちは、みんな浪花のアキンドになっいてしまった。「アンサン、ナニゆうとりまんのや、そんなもんにゼニイイチモンも出せしまへんわ。」
という時代に突入してきたんである。しばらくすると、そんな風潮が一般市民にまで(つまり僕たちや、僕たちの仲間)広がりはじめた。それは自身のことまではいい、ようは人に意見するところに問題がある。たとえば、参加しようとした人の多くは、言われたことがあるだろうし、我々も言われ続けてる「そんなことして、どうなるの。お金になるのか、体は大丈夫か」ってことだ。つまり抑止圧力の増大である。そのうえ、開催には毎年おびただしい額の不足額が生じてきている。毎年数千万単位の不足である。「もはや事業やないで」「あたりまえや、儲けようなんて思うてやってない」「あほや、アンさんあほや」みたいな話で、先のヘリの安全性の問題も突きつめれば実は、資金力さえあれば片付けられるのである。

今回も試走をしながら思うのである。実は今ゾーモッドの井戸にいる。「この大会を終わらせるのは、実にもったいない。」と、なにがってやはり年月の積み重ねによって醸成されてるもの、たとえば人間関係や、ノウハウやそうした歴史や文化やっていう、いわゆる「かけがえの無いもの、得がたいもの」の連続性が途絶えること。なのである。
僕は、ラリーレイドモンゴルをエントリー費を20万円くらいにしたい。そしてエアも輸送費も含めてだけど。そうして、本当に多くの人にこのラリーを体験して欲しかった。「心血を注いで作ったから、みんな見て!」みたいな幼稚な発想で言ってるんじゃない。自身の感性の扉を、ほんの少しだけ開けて、この地を走れば、日本人のアイデンティティや、そのインディヴィジュアリティが見えてくる。20世紀に人類がなしたことがなんだったか、スターリズムがなんだったか、巨大ないまだに理不尽な考えを主義とする、一党独裁の国がわずかな距離を置いて存在する戦慄を。走り出すと、さまざまな思いが胸を射すくめ、ときに時空を曲げて、今走ってる道の先にあるものが、果たして現代なのか過去なのか。そこには過去にとらわれた自分がいるのか、未来に向かうう勇気があるのか、そのように自分に問いかける。そんな気持ちを得るひとつのきっかけにできれば、たとえば費用対効果を唱えるナニワショウニンにも「エエデンナ」と言わせられるに違いない。と思うからなのである。僕は試走に出る前の日、ある日本人のご婦人を日本からご案内した。ウランバートルの北にあるジャルガラントという元国営農場跡。彼女は1947年この地で捕虜として収容されてた父を亡くした。彼女はその時3歳。終戦直前に満州で民間人であった父親は前線に借り出され終戦、そして苛烈な大地の粗末な建物に収容された。待っていたものは死だった。「戦争とは何であったか」とラリーが始まってこの8年間、特に考えるようになった。そしてその戦後処理の問題点もたくさん目にしてきた。日本人としてアジアの中で、お金以外でどのようにして尊敬が集められるのか。その答えは今の日本人の「費用対効果」の考え方からは出てこない。