Organisation Voice 2011/12

 

 

2011/12/28 (水曜日)

「さらば、2011」

なにかと激動の2011年も静かに暮れようとしている。

「あっという間の1年でしたねえ。」

と普通に誰もが話す。
そうなのだろうか?

あの3月11日の出来事と、そこから連綿と続く事態はどうだ。
本当に、あっという間の一年だったのだろうか。

政治はどうだろう。

人の心は、どうだろう。

いまの社会は、利権を守りたい「持つ者」とそれを壊したい「持たざる者」のぶつかり合いだ。政治はそれを調整する機能だったはずだが、彼らもまた「持つ者」の代表格だということがわかった。本当に、あっという間の一年間だったか。

はるか以前に書いたが「民主党がひとつでも良いことをしたか?」というある首長の問いにボクは「ある。」と答えたことがある。

「ほう、それはなんですかな?」と
「ボクタチは幼いころから、上手い話には気をつけろ、と教えられてきた。それを日本人に思い出させてくれたのが民主党だ。こんな立派なことはない。」

彼は
「それ、使わせて欲しい」
って言った。

ある公務員と2チャンネルの話になった。
「あれはけしからん。あんなのがあることは許せない。」
と。
ボクは
「いや彼らの存在は素晴らしい。」
「どーしてそんなことを言う」
「トイレの落書きがなくなった。」
「うーん、それ使わせてくれませんか」

ボクは
「発言には著作権はないのだろうか」
と思いながら
「いいですよ。」
と。

つまり何が言いたいのか。
どのような惨禍にも、どのような政権にも、見るべき点や見習うべき点、または参考にすべきことは存在するのだ。
この世の中「素晴らしい!」ことも多いが、素晴らしいことから学ぶことはそう多くはない。
すべからく民主党には学ばなければならない点が多い。

ボクもよく言われた。
「言っていることと、やっていることが違いませんか?」

ボク
「おまえな、言っていることとやっていることが全部同じなら孫さんより成功しているよ。」
「・・・・・・・」

つまりボクも民主党なんすよ。マニフェストなんて、あんなのは選挙で勝つためだけの美辞麗句で、子供手当て26000/人の時には、ボクは小さな子供を3人も持つ奴に「ヘーん、ボクは勝ち組!」とか言われて悔しかった。

とまあ2011を総括しようと書き始めたら実に下らない話になった。

さあて、これからめくるめく忘年会が続く。。。

きょうの一枚

ゾーモッドの赤い土地。いつも不思議なインスピレーションを与えてくれる。何度この地に訪れたことだろう。

 
2011/12/26 (月曜日)

「週刊タクラマカン」

タクラマカンも随分盛り上がってきた。ボクは何で行こうか?と考えている。去年の今頃はR1200GS-A+サイドカー・・・なんて計画をしていた、これもありだけどランクル70をちょっとカッコ良くしようかなあ・・・とかでもジムニー行くしなあ?などと装備を考えたりたり、タイヤを考えたり。

で、実は後ろから大型トラックが進行しているのであります。カミオンバレイね。写真はチョモランマのときのカミオン。

天津で荷物を受け取った彼らは、FJクルーザーにウラルサイドカー、にバイクを積み込みなんとカシュガルまで、おおかた中国の長手方向の縦断をして合流。その後は最後尾からゴトゴトと走行。もちろんチョモランマBCや、ツァンダには行かなかったものの彼らがいる安心感は絶大。

今回も、天津で通関したらこれに積んで嘉峪関のホテルまで大移動。そこから常に後ろにいる。なんだ、スペアタイヤとか全部これに積んで、身軽な旅をすればいいや。。。なんて考えちゃったりしています。

さあ、2012年。さまざまな旅が、また始まります。

きょうの一枚

チベット縦断のカミオンバレイは、この大型トラックだった。ツアンダへはさすがに行けずに数日間は別行動だったけど、素晴らしい活躍をしていた。

2011/12/22 (木曜日)

「FA-coat Rally Mongolia 2012 のご案内」

そうだよ、本来はこのコラム、こういうことを書くためにはじめたのに。というかもう12年もやっているんですね。

99年からはじまったこの「デキルダケ日刊SSER PRESS」
なんども「リニューアルしよ!」
という声にも頑なに
「これでいいのだ。」
とバカボンのパパのように一途に。

って、すぐに脱線してしまうのでした。

今日はモンゴルへのお誘いです。
プレエントリーCase-1が続々と届き始めています。
「おお、あなたも来年も来ますか!」
という人や初めての人も。

が、なにか忘れている人がいるような気がしてならないんです。25日締め切りなんですが、23、24、25って3連休だし。

何度か書きましたが、やはりお得な早期割引のCase-1の手続きをお勧めします。さあ2012のモンゴルはまた、賑やかで面白くなりそうな予感で溢れていますよ。

きょうの一枚

東さん。TBIなど上位の常連。今年のモンゴルは十分な準備期間ののち出場。ボクタチの期待はいやがうえにも。ゼッケンは「3」まあ、これはエントリが早かったということですが。ところが、ナビに手間取り大苦戦。モンゴルの帰国便の受け取りの帰り道、SSERの事務所に寄っていただきコーヒーを飲みながら

「いやー、モンゴルはちょっともう・・・」

ボクは

「そーだよねえ。」

ところが、彼は男の子でした。

なんか、彼からのエントリーフォームが届くやボクはうれしくて、これぞ主催者冥利につきる、とひとり感じいっていたのでした。

2011/12/21 (火曜日)

「TBI,TBI,TBI」

さあTBIのはじまりだ。

春の光が降り注いでいるような気にさえなる

そんな気がするのは、全国からどんどんとTBIのプレエントリーが届いているか らかもしれない。なにかと辛かった2011年は、高野山から旅をはじめた。奥の院の山門の満開の桜が心に染みた。GWに見られる桜は、なかなか西日本では稀有だ。 ただそれだけでも、なにか特別に用意されたことのようで心が潤った。

高みから見下ろした紀ノ川が西日に輝いていたことや、温かな夕暮れの空気が何 故にと思うほど、心地よかった。ふっと、ため息をついた。深草君がボクの横でハンドルを握っていた。た。た。

あのころボクは、震災支援で石巻の活動を撤収し、事務所にツリーハウスのような茶室作りに励んでいた。まあ励んだと言うほどではないが。。。たった3畳あ まりの背の低い小屋がけのそれは、まれで茶室と言うよりはトム・ソーヤの冒険の秘密基地そのものだった。

もともとの動機は「心を磨きたかったから」なのだが。

心を磨く、おそらく人々は、それに似た思いで四国遍路の路に経ったはずだ。ボクときたら、少なくとも四半世紀の四国をめぐる旅をしながら、どうにも心が磨かれない。ばかりか、腹が立ちやすかったり、人が羨ましかったり、ばかりする。

つまり満たされないのだ。
足るを知らないのかもしれない。

方丈の月日庵は、しばらくそうした煩悩を忘れて旅に出ることができる、まあ仮想空間へ旅立つカプセルだということだ。

つまるところ「心を磨く」と言うのは満たされない思いを埋める、という行為なのかもしれないなと思うことになった。

ならば具体の旅に出るのが良いだろう。
とびっきりの、旅だ。
ならばTBIだ、という理屈だ。

そのTBIは、1989年からだからもう何年目になるのかは数えないことにした。というのも途中3年間のTDNツールドニッポンは数えるのか?数えないのか?という議論もあるし。。。

考えてみれば、橋もついたし高速も伸びるだけ伸びた。でもそこはGWには混雑し、わざわざそんなところへ行かなくても深い四国の山々は、いつも通るものも少ない。

きょうの一枚

TBIの原風景は四万十川と川を渡す鯉のぼりだろうか。いまでは全国的に広がった感のあるそれだが、30年近く前にはみんな驚いた。そういえば鯉のぼりをバイクに着けて走っていた参加者もいたなあ。なんて考えていたら菅原さんのことを思い出した。鯉のぼり、かあ。

2011/12/19 (月曜日)

「さて月曜日は、週刊タクラマカン」

とはいうものの風邪でダウンしていて、ようやく復帰。週末にお約束していた各位にはお詫びの申し上げようもありません。

土曜日は苦しみましたが日曜の夜あたりからは、なんのことはない「坂の上の雲」か「バルサVSサントス」か(放送時間がバッティングしまくり!)を悩み、なんだBSで18時から「坂の上の雲」あるよ、と安心して両方続けて見ようとしたのですが、薬のせいか途中で朦朧。まあそんな日曜日になってしまいました。

さてタクラマカン、添付の絵地図はボクが一昨年の計画段階の落書きのもの、、ですが、今回はほとんどこのルートで行こうと思っています。一部のジムニー乗りの皆さん?が過激なルートの要望をしているようですが、2012年版ではたっぷりと余裕の旅をと、考えています。

でも「敦煌の休日」の1日を利用して玉門関からヤルダン地形ルートを探検に、その先はもう不毛の砂の世界だから。(写真がそこです)

そもそも今回の目的のひとつは沙漠公路の縦断。タクラマカン砂漠を南北に貫く道路を走るものです。しかしまあ、そこはバスも通っているところ。われわれの興味は、こうしたタクラマカンを縦に走って、かつてはロプノールに水を送っていたタリム川を越えるということ。

110年前スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンは乾ききったロプノールの川床に着きました。そこに楼蘭の夥しい遺跡を発見。そしてこの湖ロプノールを彷徨える湖と呼んで、その原因を推測しました。それは川の堆積により1500年周期で流路を変えるというもの。つまり600年代に消えていった湖は1900年代に再び現れる筈でした。

そしてその30年後の1934年。1500年の静寂を破って再びタリム川はロプノールに流れ込み始めたのです。年老いた?ヘディンは、それでもカヌーでタリム川を下り遂にロプノールへたどり着きます。

「私が34年前に幸いにも征服することのできたあの砂漠の中まで、この濁った川筋をたどっていくことを考えると、身の引き締まるような思いがすると言ってもよかった。私たちのカヌーは、道のない河床に印された私自身の駱駝の足跡の上を滑っていく。足跡が34年の歳月の間に、東から吹くきびしい春の嵐で掻き消されてしまっているのは間違いないが、それでも1900年3月に私のキャラバンが前進をつづけていったのは、まさにここであり、まぎれもなくこの同じ川の河床なのである。」ヘディン『さまよえる湖』からえる湖』からえる湖』から

さてそれでは、ヘディンの説が正しかったとすればいまも満々と水を湛えたロプノールがあるはずなのですが。この数年間訪れたそこを見れば、高度計でも相当な深さと大きさの湖だったことがわかりました。実は1970年ころまで、この湖に水は存在していたようですが、その後の流域の取水による断流が原因で、今度こそ本当に涸れ上がってしまったというわけです。人類にとって、また中国国民にとっても真剣に考えるべき問題ではありませんか?

さらに、もうひとつのテーマ・・・ボクだけなのですがこんなの。

万里の長城は、実は嘉峪関が西の果てではなくカシュガルまで延びていたという仮説。実はボクは信じているのです。聞いたときから。ならば天山南麓伝いにオアシス都市をつないでいたのではないかとも考えられるのですが、それならもっと早く発見できたはず。ハハーンやっぱりね

それは玉門関からロプノールを経てタリム川沿いに在ったのではないだろうか・・・などと考えて一人で気ぜわしく旅支度を進める年の瀬でした。

すいませんまとまらない話で。


2011/12/16 (金曜日)

「年をとるということ」

時間はアインシュタインによれば、相対的に過ぎてゆく。好きなことをしていればあっという間に。いやなことをしているときは、まさに無限だ。そんなことアインシュタインが最初に見つけたのではない。

日本の昔話ではすでに「浦島太郎」が相対性理論を示している。

いや、そんな事を書こうと思ったんじゃない。

失うか、得るか。
そんなことが「年をとるということ」か。

Frm 三上編集長が
「なんだか気づかないうちに、大切なものを失っていたのだという気がしてきた。 」
とツィートして、ダカールのYouTubeの画像を添付していた。
そのことから「年をとるということ」を考えるようになった。
彼は年を取ったのではなく、時間を失ったということだ。

以前なにかのCM、たぶんウイスキーだ。
「・・・それは、降り積もる」
という表現をしていた。

「年を取る」か「年を重ねるか」
つまり前者は取る=マイナスで、後者は重ねる=プラスなのだろう。
静かに降り積もる雪のように年を取りたい。
そうすれば熱情も恩讐も美しく飾られる。

いやそんな話でもなかった気がする。

ラリーの開催準備をしていて、特にモンゴルの試走などのハードな旅のたび
「年をとったなあ。」
と感じるようになった。
この場合、何も降り積もったとかて話じゃない。
これは単に個の劣化で、進捗の違いはあれ概ねみな等しい。
例外は菅原さんばかりだ。
いや、菅原さんとて厳しい。
厳しいからこそ、高い評価につながっている。

年は取らない。それは降り積もる。

何年か前にトシ・ニシヤマに久しぶりに会ったときに
「トシさん、年をとりませんね?」
と言うと。
「トシは取りませんよ。僕からトシを取ったらただのニシヤマになってしまうからね。」と。

何度も使っただろう、そんなギャグの1センテンスも嬉しかった。
トシ・ニシヤマは1988年のパリダカに、ボクのチームから参加した。
タマンラセットで夜明け前に別れた。

そんなこんなで今年も暮れようとしていて、またひとつ年を取る、もとい年を重ねる。

きょうの一枚

大忘年会の茶室での飲み会のために用意したマッカラン。SEOULで買ってきた。18年の歳月は、モンゴルのラリーを始める前の年まで若返らせてくれる時間の量だ。ボクが38歳のころにシェリー酒の樽に漬け込まれたこのシングルモルトがどうやってボクと邂逅するのか。やっぱり「時は降り積もる」のだ。

2011/12/12 (月曜日)

 

 

「今日は2本立て。SEOULの熱い夜と、週刊タクラマカン」

行って参りましたSEOUL。FTAのデモに沸く市内は、警察車両によって規制され、この国でも政府の選択もまた一筋縄ではいかないことを物語っています。

ボクたちが泊まっていたHOTELは、そのちょうどど真ん中。ギャラリー街までTAXIで行って散策しているうちに、帰りのTAXIが拾えない!のです。

TAXI
「どこへ?」

ボク
「LOTTE HOTEL」

TAXI
「そっちは混んでいて動かないからだめ」
たぶんそう言われたのでしょう。

歩くことに。
GPSがないので、頼りになるのはボクの方向感覚のみ。
どのくらい歩いたのでしょう。歩いたから見えたものも多いのですが一番多くみたのは警察官。しかも皆さん完全武装。

無事にHOTELまで歩きました。
日も落ちかけた頃、お迎えの車でKTM-KOREAへ。
素晴らしい店内は広々としていて、ピットはすべて地下。
ケイタリングされた食事や飲み物もたくさん。会場には大きな横断幕も用意されていました。

そして発表会では、いくつかの雑誌社からの取材も受け、彼らがこうしたラリーに大きな夢を抱いていることが伝わってきます。みんなダカールへの思いを募らせているようです。

さあモンゴルへ。
それでも困難は少なくないでしょうが
「目標は10台です。」
力強く語ってくれた彼らは、もうしっかり遠くの目標を見据えています。

「週刊タクラマカン(毎週月曜企画)」

さてコーノさん。
今週も月曜日はタクラマカン企画。
今週のお題は「莫高窟」

だれもが井上靖の小説「敦煌」や平山郁夫の絵画の数々に惹かれるように敦煌を訪ね莫高窟へやって来ると、少の興醒めを覚えます。それは鳴沙山でもかなりなものですが。

それは世界遺産に登録されて以降の、観光ビジネスの発想の貧弱さにあるだろうし、保護という観点の稚拙さにもあるのではないでしょうか。

ただここでは興醒めしておいてもよろしい。

しかしそうならないためには、必ず井上靖の「敦煌」を読んでおくことでしょう。そうすれば、河西回廊の都市も敦煌も必ずやってこなければならなかった土地だったという感慨に貫かれます。

さらにタイムマシンに乗ったような気さえします。

ボクは思うのです。

旅は好奇心と知識と想像力を埋めるひとつの儀礼なのだと。

何も知らずに訪れた旅先も、それはそれで異邦人を気取るのは良いけど、あとで知って後悔することも少なくないのです。

「見てみたい」のではなくて「埋めたい」という気分がボクは勝っているんです。

さてまじめに
敦煌に着くと「敦煌山荘」に荷物を下ろします。
そこは鳴沙山を背景に立つ、素晴らしいリゾートホテル?です。その鳴沙山の東向きの断崖に幅1600mに掘られたのが莫高窟です。
さらに西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など、無数の洞窟。
見られるのはほんのその一部ですが、気が遠くなります。

掘られはじめたのは前秦355年ころとされています。以来1000年にわたり掘り続けられいやこの後の話は是非とも小説「敦煌」で。
これを読めば、必ずこの地に行きたくなります。
行きたくなりたくない人(難しいですね)は、読んじゃだめです。

1900年頃ドイツの探検隊によって壁画の多くが持ち去られましたが、いまでも驚くほどの美しさで不思議な姿を見せています。
敦煌の出発前に、みんなで行きましょうか。
この前にクルマを置いて撮影しても、びっくりですよね。


2011/12/08 (木曜日)

「再び、恐竜の谷のこと」

ゾーモットから南に向かう。
気温計は40度あたりを指している。
でもそんなに暑いとは感じない。

遠く右手に巨大な岩山が見える。
大きな岩の塊で黒々している。エアーズロックほどの大きさはないものの、大きいし真っ黒だ。
何もない大平原に突然、地下から噴出して固まったのだ。
大地のエネルギーがフンプンとしている。

そこから先は、ただ陽炎に揺れる大地ばかりだ。
薄いただひとつのピストは、か細くこの先に村があるとは思えない。

やがて地の果てのような荒涼とした大地に、いつ降った雨が穿ったのか、谷がある。道は吸い込まれるように谷に入った。

それが、ボクがはじめて恐竜の谷に迷い込んだときのことだ。
99年の試走の時のことだ。

谷の中ほどで休憩をしていたら、モンゴル人スタッフがそのあたりから沢山の化石を拾ってきた。あまりにも短時間でそんなに沢山の化石が集められるのか訝しがった。

その谷は、ほんとうに恐竜に谷だった。
そうネーミングしたのはボクだ。
なんたって緑色の岩が、川の水を飲みに集まってきた恐竜の姿そのものに見えた。
「本物の恐竜が出てきたら、世界一有名なラリーになるぞ。」
そんな広報戦術も考えたが、生きた本物の恐竜は、現れそうで現れなかった。

その夏のラリー本番の時には、その谷はずれの古い湖のあとのようなところに行った。そこには地表に突き出した恐ろしく沢山の木の化石があった。大量の亀の化石や、巨大な大腿骨の化石などを拾った。

亀の化石はモンゴルの第一人者という学者に見せると「これほど完璧なものは、おそらく世界でも二つとあるまい」と言うので差し上げることにした。

そんな恐竜の谷は、いまだに行く手を阻んでいる。というか、たやすく行くことは出来ない。
それが良いのだと思う。
なぜかここを撮った写真や映像も少ない。
いつもカメラを向けて大量の写真を撮ったように思うのだが、帰って整理をするとあまりないのが不思議なのだ。

ラリーの映像もない。
必ず来年も通って、前の晩から張り込んでもスチールとビデオカメラを配置すると心に決めている。

きょうの一枚

恐竜に谷の南側の入り口から少し北上。まだ本格的な谷は少し先だ。全体に砂っぽい。イメージとしては地球上ではない。

2011/12/06 (火曜日)

「FUTURE Vol-8 只今鋭意プレス中!」

おかげさまで、早いものでFUTUREも2年目も終わる第8号をプレス中です。なにかとネット上でいいのに、わざわざパッケージになんて・・・という批判はすでに皆無に。それはそうだろうと思います。

先日の恵比寿「7」でのプレゼンテーション・・・150インチのスクリーンに映し出された映像は、思わず「ウウッ」となってしまいました。

普段はパソコンの画面でしか見ない映像を、大きなスクリーンと素晴らしい音響でお楽しみください。

なんて言い出したら、もっと画質と録音をクオリティアップしなきゃならないので、自分で自分の・・・ではあります。

いずれにしても随分と支持も増えたFUTURE 12/20号はお近くのパートナーショップまたはフューチャーショップで入手してください。

きょうの一枚

これは先行してSEOULの発表会のお土産用に用意したFUTURE特別編集版。1枚1枚手焼きのもの。

2011/12/02 (金曜日)

「恐竜の谷について」

今日のことFUTURE-VOL.8の編集が終わって見直しをしていました。
するとゾーモットに到着した松野さんが

「疲れたー。でも恐竜の谷で疲れが吹っ飛んだよ。あそこはすごいねえ。」
とか未明にゴールした松下さんは
「深夜に通ったのだけど、キラキラ輝いていて美しかった。」
という具合に恐竜の谷は、本当に不思議なところです。

今回は撮影クルーが恐竜の谷に行けなくて残念なことに映像がないのです。

それにあの辺りは、ここのところ金鉱探しのクルマの着けたワダチで、それはもうまっすぐ恐竜の谷に入るのは難しいほど。

10年前にはか細い1本の、それも消えてしまいそうなほどのワダチがあった程度なのですが。

こんな面白い話も
ムッホが日本人のカメラマンをここに連れてきたそうです。
「ここはすごいねえ。日本人でここに来たのはわれわれが初めてだろうねえ。」
ムッホ
「いえ、ボクも始めてきたのは日本人に連れて来てもらったんです。」
日本人カメラマン
「・・・・・」

まあいずれにしても、そういう場所なのです。

久しぶりに通りましたが、それも南からのアプローチ。数年間も通っていなかったのですが、再び恐竜の谷へもっと深く行ってみたいなと思う2012のルート構想でした。

2011/12/01 (木曜日)

 

「すいません、ブログとかぶりで・・・」

タンタンの話をブログに書いていて、コロンビアのグスタボさんのご兄弟のことを思い出しました。(タンタンつながりのお友達になりましたから)

彼らは下半身がパジェロエボリューションのエスクードに乗って、それはとても楽しそうに毎日走っていました。

あまり飛ばさないように見えますが、気がつけばゴールしてる、といった具合です。ゴールするとクルマから2つの折りたたみのキャンピングチェアを出して、そこらあたりの高台に登ります。おそらく特段の風景ではなく、どこまでも広がる空間を見やっているのでしょう。兄弟二人で椅子に並んで座って、とにかく仲良く笑いながら話をしています。遠くから見るととても絵になります。

そこでは今日のルートのことを話しているのではないように感じます。

来年モンゴルに来るのなら
「毎日何を話しているの?」
と聞きたいと思います。
答えは案外と
「いや、タンタンの冒険とこのラリーについてだよ。」
なんちゅう大人の回答が返ってくるかもしれません。

コロンビア。

悪いイメージばかりが伝わってくる国ですが、この二人の人物を見ていて深い感銘を受けたこともまた事実です。それ以来コロンビアの印象はまったく変わってしまいましたから。

だからわれわれも海外に行ったときの立ち居振る舞いも、日本を背負っているんだ!?は大げさですが、ちゃんとしなければなりませんよ。ね。今度SEOULの発表会に「ボクも行く!」の皆さんもですぞ。

きょうの一枚

微妙な色味の青空、砂丘の描き方。らくだとタンタンの配置。らくだの人を馬鹿にしたような笑顔、さらに言えばらくだのX脚にまでタンタンのファンはうなるのでありますが、さて。