Organisation Voice 2007/09

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2007/09/30 (日曜日)
行程20日目 リガ−ワルシャワ 720km
「ヨーロッパに愛された小国たち」

正午になったというのに太陽が傾いてる。まるで午後4時過ぎの高さだ。緯度か高くなっているからなのだが、季節感が狂うし時間の概念も狂う。でも一番困るのは方向感覚がずれていくことだ。

リガの朝は、ホテルの素晴らしい朝食ではじまる。橋を渡った旧市街にバイクを進める。

世界遺産リガの旧市街だ。どうもこのバルト3国は、いかにも怪しい。というのはエストニアはロシアから入ると、それは豊かに見える。美しく、輝いていた。そしてロシア製のクルマなど1台も走っていなければ、これまで悩まされていた大型のトラックの姿も無い。

このロシアと接するエストニアには、EUは環境整備に多額の援助と投資を行ってきたのだと思う。それも無償の愛のような。とにかく国中が美しい。真ん中の国ラトビアには、いあわば第3次産業を根付かせようとしているのかもしれない。ホテルの前には新車のベンツのタクシーがずらりと並び、世界遺産の町並みを訪れる海外の客で大賑わいだ。観光と自分たちのリゾート地だ。この古き素晴らしい町に、ヨーロッパの伝統を感じるのだろうと思うし、ああヨーロッパに愛されてる国々なんだなあ、と思う。もちろん地勢的に戦略が無いわけでもなかろうと思う。しかしそれを超えた愛情のようなものを感じた。

いっぽうポーランド側のリトアニアには、国境にトラックの長蛇の列が並んでた。入国はフル加重。つまり荷物満載だ。帰り便(つまりバルト三国からの帰りのトラック)はすべて空荷なのだ。

午後ポーランドに入国。ゲートらしきもはあったがパスポートコントロールなし。中国いやロシアのそれとEUを比べると・・・いやがうえにもこちらのほうがものや人の往来も盛んになるのは当然だ。

ポーランドの湖のほとりのカフェで少しばかりくつろげば、ただあとはひたすらワルシャワへ向かった。

第二次世界大戦など、不幸な20世紀をすごしたこの国の人々と大地には、悪夢の歴史を微塵も感じさせないかというとそうでもない。村の佇まいに、大聖堂や、古びた通りに、あの時代のことを感じた。

やはり旅は、こうして大地を踏みしめて走るに限る。微妙な変化や息遣いが、風景も色や風までも感じることができる。

もちろん多くのツーリストは飛行機とバスでやってくるだろうけど、やはり僕たちの矜持は、自分のバイクでユーラシアを横断してきたということだ。明日はドイツだ。ミュンヘンはオクトーバーフェスティバル!!っていうかビール祭りだ。わっしょい!

西安-巴黎 絲綢之路 国際越野賽 2007の模様はこちらのサイトにてお楽しみいただけます。写真など随時掲載中!


2007/09/29 (土曜日)
行程19日目 サンクトペテルブルグ−リガ 670km
「バルト海の宝石、リガに着いたぞ。」

その町は古びていた。ここのところどの街も宝石のように素晴らしいのだが、やはりリガは格別だ。よく整備された国道はまるで高速道路のようで、そこから街に向かって長い坂道を下っていく。すると路面電車と石畳が、その町の成り立ちや古びたよさを物語っている。アポリネールやローランサンの時代のパリの空気だ。

頭の中に、「ラビアンローズ」がかかった。そうだね、映画だ。あっど忘れした。あのシャンソン歌手・・・・・えーと。と頭の中はそんなことばかり考えてる。

世界遺産の旧市街がホテルの窓から見渡せる。明日は早起きして歩いてみようと思う。なんと云う幸福だろう。

今朝はロシア最後の都市サンクトペテルブルグをあとに国境に向かった。ややこしい国境はこれが最後だ。とにかく中国とロシアの国境はいただけない。

しかしリトアニアに入国するや、トラックも走ってなければロシア製のクルマも皆無だ。そうだ、ロシアに完全に背を向けてるのだ。この国はバイクブームだ。日本製のレーサーレプリカやハーレー、KTM、とにかくバイクが多い。そして根本的に日本とに違いは、若者がバイクに乗ってることだ。こちらはおじさんたちの乗るBMW・・・なんだか照れくさい。

そしてこの国は、道路も素晴らしいし換えたばかりのタイヤが最高の幸福感を与えてくれる。風景も最高なら気温も光も風もすべてが完璧だ。人生の中でバイクを走らせた最高のひと時のひとつだ。

この右手遠くのバルト海を眺める美しい丘陵地帯。制限速度は110kmだったりするので、真剣に走らなければならない。

エストニアからラトビアの国境は「中国の高速道路の料金所より早いや」という簡素ぶり、とにかくバイク乗りの幸福とは、今日のような一日のことを言うんだな。

明日はワルシャワから、リガの世界遺産の町並みのことと、ポーランドの今をレポートすることとしよう。

そう多くないだろう所持金をガソリン代と酒代で折半するカオルさんが、国境で買ったボクの好きなウオッカ「フィンランディア」の、マグナムボトルで、もうこれ以上先に書き進めれなくなったので、寝ることとしますね。

 

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2007/09/28 (金曜日)
サンクトペテルブルグ (休息日)
エルミタージュの休日」

ホテルの地下駐車場では、マシンのタイヤ交換の作業が始まっていた。ついにTKC80 からトレイルアタックに履き替える。トレイルアタックとは名ばかりの?まるでモタード用のタイヤだ。道路工事中の泥濘地にあえばひとたまりも無いが、とにかくアウトバーンの高速巡航に備えとしよう。ここまで約10000km。まだTKC80は十分な山が残ってる。「パリまで行けたね。」「いやあ、このタイヤには驚いた。」と皆さん。んでもってインターコンチネンタル(ホテルではない)とニックネームをつけた。

午後からはホテル前のネフスキー大通りを西に歩く。ピョートル大帝によって作られたこの街は、ヨーロッパを模して贅を極めて建設さtれた。美しいのだが、どこか悲しげであり憂鬱を感じる。エルミタージュは僕の世界の中で訪れてみたい美術館または博物館の、最後の二つのうちの一つだ。残るはトプカプ宮殿博物館だけとなった。そいつはイスタンブールにあるから、そちらに向けて旅路を延ばせばよいだけのことだ。

エルミタージュは期待を裏切らなかった。展示方法に疑義が無くはないが、それもまた良い。ネブァ川のほとりに立つ姿は、まんまパリのセーヌのルーブルやオルセーに引けを取らない。

エカテリーナ大帝の肖像を求め歩くと、セザンヌやゴーギャン、マティスやっルノアールの見慣れた光が、全体出来に暗い絵画郡にあって虹彩を放っていて助けられた。

とにかく絵画や彫刻などの巨大な収蔵量を誇る美術品もさることながら、建築の美しさ、壮麗さにやはり心を射すくめられた。

長い旅の休日に、僕たちはエルミタージュに息を潜めて、午後の数時間を過ごした。

幸せなひと時であった。

走るという幸せと、走らない日の幸福感。秋の日の暖かい光が美しいエルミタージュ美術館を染めていた。

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2007/09/27 (木曜日)
行程17日目 モスクワ - サンクトペテルブルグ 720km
「サンクトペテルブルグへの道すがら、考えた。」

ゆっくり目の朝食を、モスクワの中心部にある高級ホテルラディソンで食べていた。疲れきった身体に、高級ホテルの朝食ならではの新鮮な生野菜やフルーツが、今日一日のヴィタミンを補給してくれる。睡魔を克服するにはビタミンCは欠かせない。

さて、ここまでおじさんたちは、長い旅をしてきた。

「この旅の意義はなにか?」

不思議なのだろう、そんな質問を投げかける若いメンバーがいる。きっと疲れてきたのだろう。

「意義?そんなもんは知らんよ」

そう思った。バイクはモスクワの複雑な道を曲がり、石畳の振動を楽しみがら、赤の広場にたどり着いた。葱坊主のロシア正教会が朝の光に輝いて荘厳だった。

15年前のパリ−モスクワ−北京の時は、ここは夜だったから、ライトアップされていてそれはそれで悪くは無かったのだが、日の光に輝くのも素晴らしい。

ちょっとおじさんたちは感動した。この感動は、この後の走ることへのエネルギーの補給となったようだ。

この美しいモスクワの街は、この数年間に手入れが行き届き、旅人を臆させるほどに発展しているではないか。

レニングラード通りを北に、サンクトペテルブルグまで延びる道に乗って考えた。

「その、意義ってなんだろう?」

バイクに乗るのにいちいち意義を見つけなければならないなら、もうバイクというものの存在すら怪しくなるんじゃないかと思う。バイクの存在意義を問われているようでもある。答えは割りと簡単だ。ただひたすらに「走る。走る。走る。」走りながら、そして走ってから考えればいいことだ。

それが証拠に、今朝の高級ホテルに横付けされた黒塗りのメルセデスの男たちの、羨望のまなざしを見たか?

エナメルの靴に、馬鹿の一つ覚えのような黒ずくめのアルマーニな男たちの驚きを見たか?

今朝、うす汚れたライディングウエアで食事をする時、あるメンバーに尋ねた。

「こんな高級ホテルで、こんな格好で恥ずかしいと思うか?」

「少し!」

僕はまったく思わない。上質な黒いスーツなんかはるかに及ばないほどに、汚れたおじさんたちの姿は格好がいい。そう思うひとつの理由は、ここが中途半端な高級ホテルではないからだ。豊かそうに見える男たちが実は貧しくて、泥んこのユーラシア大陸を越えてきた男たちのほうがはるかに男として豊かなのだと。

旅人を見続ける、こうしたホテルの人々は理解するに違いない。

出発する時にはベルボーイはおろか、成金趣味な黒塗りのメルセデスの客たちも、ホテルの支配人たちも、われわれの旅を眩しそうに眺めていたではないか。

赤の広場では映画から抜け出てきたような、ブラッド・ピットとジョニー・ディップを足して2で割ったような男が、微動だにせずに眺めていたではないか。彼の心はさざなみが揺れていたはずだ。対向するトラックやバイクが、歓迎のクラクションを上げる。

そして道すがら「意義はロッキー5にある」と思った。

ロッキーの誰もが止める無謀な挑戦も、勝てないと分かっている闘いも、判定で負けるのならば意味があるということを。息子との葛藤の中に親父として示せるただ一つのこと。歴史を語るのではなく、行動こそが男の力なのだということ。おじさんたちには、男としての黙して語らない魅力が溢れていた。

サンクトペテルブルグが近づくと、かすかに海のにおいが届いた。大陸を横断してきたおじさんたちの鼻腔をかすめた海のにおいは、こうした無謀な挑戦が終わりに近づいてきたことを告げていた。

サンクトペテルブルグはパリだ。というお話は、休息日の明日としよう。いよいよ次はロシアをあとに、バルト三国へ向かう。タリンでお茶を、そしてリガで飲もう。

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2007/09/26 (水曜日)
行程16日目 2007年9月26日 カザン−モスクワ 800km
「モスクワ、モスクワ、モスクワ」

全員、疲労困憊だ。走る距離もそうなのだが、やや悪い循環に陥りつつある。

夜遅いので翌朝の出発時刻を遅らせる。そうすると到着はさらに遅くなる。時差調整のある日になんとか助けられてはいるものの、今日あたりは蓄積された疲労の極みであろうと思う。

それなのに明日の出発予定時刻を告げなければならないのは、厳しい。

なぜ毎日の距離が精密でないのか?という素朴な質問に答えよう。たとえば今日は、途中の分岐でロストしてしまった仲間を探すために、数十キロ走らなければならなかった。なので走行距離をすべて書くと836kmとかとなってしまう。

それでも、深夜のモスクワに到着したときには、古きよき歴史ある佇まいやクレムリンの灯に、長い旅のフィナーレが近いことを感じる。こことパリはまさに指呼の間だ。

カザンを出発するとしばらくしてヴオルガ川を渡る。川というよりは海だ。この川の豊かさこそがロシアの豊かさだろうと思う。まさに母なるヴォルガだ。ずっと眺めていたいのだが。ロシアは川の旅も面白いと聞く。運河が張り巡らされているのだ。川の風景は日本のそれとは大きく異なる。

道中は工事とトラックに閉口される。しかしトラックを見てるのは楽しい。各メーカーのシェアも分かろうというものだ。

中国では東風(トンフー)とKAMAZ、カザフではKAMAZとMANここへくるとMERCEDES、DAF、MAZ、それにルノーだ。いずれもフルサイズで、にほんのトラックを見ることは無い。まさにヴォルガと日本の川との違いを見るようだ。

さあ、明日は、いやもう少ししたらサンクトペテルブルグへ向けて旅立つ。最後の休息日の待つ街だ。

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2007/09/25 (火曜日)
行程15日目 エカテリンブルグ−カザン 1000km
「ワレラ、大陸間弾道弾ナリ。」

エカテリンブルグの町並みは小雨に濡れていたが、空は晴れてきて美しい1日の予感だ。今日は問題の1000kmのステージ。こんな日は、のんびりとスタートするに限る。

少し走るとアジアとヨーロッパを分けるモニュメントがある。パリ4500kmという表示もある。もう今日からヨーロッパだ。

道筋から見える風景の美しさはどうだ。心の中に何枚もの絵画を積み重ねていく気分だ。そう、この黄金に輝く風景はゴッホのものだ。この抜けるような空気、気分は最高だ。音楽はチャイコフスキーかドボルザークあたりがi-podにあるなあ、と考えていたのだけどなぜだかカルロス・サンタナの「哀愁のヨーロッパ」が頭の中で鳴り響いてた、そうあの古い録音でハウリングがはいってるやつだ。

しかし1000kmを1日で走るとはなまなかではない。予定ではBMWディーラーに届いているはずのスペアパーツを、断腸の思いであきらめて旅立つ。さすがに開店の時間までは待てない。

1000kmを1日で走るのは、このマシンにしか出来ない。しかも平均年齢56歳。オフロード走行今回初体験1名、これまで日本での1日の最長距離350km1名。しかも昨日も深夜のゴールだ。

タイヤもTKC80のままで良かった。というのも700kmを過ぎた辺りで大ミスコース。ロシアの国道はオフロードになり、最後には惨い泥濘地と化す。引き返すべきか否か、たどり着いたのは巨大な川、そうヴォルガだ。深夜11時。川には大きな渡し舟があった。交渉の結果、深夜の渡河。疲れきった身体に奇妙な喜びが芽生える。気温は低いが川を行く。

午前3時ころカザンに着く。2時間の時差があるので1時だ。救われた。この街はまた素晴らしい。どこかに似ていると思えばグラナダだろう。町の中心部には巨大な城壁に守られたイスラム寺院だかロシア正教会だか区別のつかないモスクというか、聳え立つ。ライトアップもすごいしランドスケープのライトアップもだ。

ここはタタール人の聖地。カザンとはカザフスタンのことらしい。まるでヨーロッパの最後のとりでとなったグラナダのアルハンブラ宮殿を彷彿とさせたのだ。

なんとロシアの歴史の奥深いことかと思う。いまこの地にいる幸福感が、深夜のパソコンに向かわせている。

山口さんはタイヤ交換をし始めた。1000km走行の果て、ワレラハ大陸間弾道弾のごとくだったのだが、まだまだ余裕がある。周りのスタッフのほうが心配が過ぎる。

それにしても相棒としてのこのマシンは素晴らしい。

タイヤは最高だ。僕は無交換でハノーバーにあるコンチネンタルの本社を表敬訪問しようかと思うくらいだ。7000kmをこえたそれは「大陸間弾道弾」というネームを授けよう。

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2007/09/24 (月曜日)

行程第14日目 コスタナイ - エカテリンブルグ 540km
「エカテリーナの憂鬱」

カザフの国境の町コスタナイは朝霧に包まれていた。遠くに朝日の気配があったので、やがて晴れる、そして気持ちの良い秋空が現れるはずだと思っていた。気温は昨日に比べるとずいぶんと高い。8時の時点で11℃ある。インナーのフリースが不快なほどだ。

案の定、国境が近づくころには輝く秋の日に照らされて心が弾んだ。国境までの170kmを2時間あまりで走った。カザフ側国境ではロシアのグリーンカード(保険)の手続き、そして2時間あまり待って出国。ロシア側では、入国手続きに車両の登録書の発給、求められるのは「日本のコインは無いか?」「紙幣は無いか?」まるでコレクションをしている風を装うあからさまな要求に辟易とする。

ロシアを走り始めたのは、陽も傾き始めたころだ。ロシアは急速に豊かになってきているのは風景と道路で実感する。

やがて路面電車も残るエカテリーナの名を冠したロシアの古い都市エカテリンブルグにたどり着く。国境で6時間過ごしたから、570kmの道のりはハードだっ他が、おじさんたちは愚痴ひとつこぼさずに淡々と走り続ける、激しい雨が降り、そして路面はぬれる。日没後は小ぬか雨。美しい並木道と古い町並みのど真ん中の5つ星のホテルにチェックイン。

この街は、かつてのロマノフ王朝の終焉の場所でもある。記憶違いがあると思うけど・・・それは100年もたたないほどの新しい出来事である。モスクワを逃れたニコライ2世らは、この町で革命軍に捕らえられ処刑された。つまり華麗なるロマノフ王朝の象徴でもあるエカテリー女王の名を冠したこの町で王朝は悲劇的な結末を迎えたのだ。

記憶が正しければ1918年のことだ。その後この街の名は、ご他聞に漏れず革命戦士の名前がつけられていた。そして民主化後、共産主義時代を憎むかのように王朝時代の名前に戻された。するとその美しい響きに、街の誰もが感嘆したろう。ごく最近の新聞記事で、この地で処刑されたニコライに2世の遺骨をきちんと葬るという話があった。その遺骨がニコライのものであるかどうかDNA判定をするということになったが、そのDNAは、なんと日本のどこかの博物館にあったのだ。それは明治維新直後日本を訪れたニコライは、日本の警察官に切りつけられるという事件があった(と記憶している)。そのときの血まみれのシャツが、どこかの博物館に保存されていたのだ。日本に帰ると、その博物館に行かなければなるまい。

さて明日は1000km超のステージだ。だからといって早朝にスタートをせずに、この街のたたずまいを確認できる時間に発つことにする。それほど心に残る街となった。アルマティとエカテリンブルグ。

古い都には王朝の憂鬱が、深い木々のかげりのように木漏れ日に彩られていた。

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2007/09/23 (日曜日)

行程第13日目 アスタナ−コスタナイ 700km
「コスタナイの退役軍人たち」

今日は休息日明けということもあって午前6時にホテルを出発。とにかく寒い。ラリー2スーツにインナーを取り付ける。冬用のアンダーウエアを着込む。身体の自由が奪われるのだが、スクリーンに身を潜めてグリップヒーターを最強にすれば、このマシンは極北の初冬も駆け抜けられるに違いない。ホテルを出たときはプラス1度だったのだが、アスタナから西に伸びる草原の道に出たとたんマイナス7.5度まで下がった。早く夜が明けないかを一身に願いつつアクセルを開ける。やがてバックミラーに赤い朝の太陽の光が差すと、気温も徐々に上がり始めた。

そういえばカザフに来て料理が旨いなあ、と感じてる。この寒さをしのぐのもたっぷりと食べた肉と野菜の恩恵に違いあるまいと思う。

コスタナイにはまだ日のあるうちについた。この移動をらくらくこなすマシン、とにかくここらで絶賛をしておく。タイヤもディープサンドはともかくだが素晴らしい。この二つが素晴らしいか否かで、こうした旅はまったく印象を大きく変えてしまう。

コスタナイのホテルのレストランでは、アフガンPKOにこの町から参加していた退役軍人たちが集まって同窓会をしていた。酔うほどに戦友たちは素晴らしいのだ。この長い旅の戦友たちもこうであろうと思いながら、たびたび繰り返す彼らの乾杯を眺めているうちに夜が更けてきた。

すべての参加者たちは全員元気いっぱいで、明日の2度目の国境越えに臨む。明日は7時積み込み、7時30分朝食。8時出発。カザフ時間11時、ロシア時間10時に国境を越えるぞ。

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2007/09/22 (土曜日)

行程第12日目 アスタナ (休息日) --km
「アスタナの休日」 晴れ 気温5〜10度

さあ、タイヤ交換!と張り切ってGSのところに行くと、「おや、タイヤこれ8分山あるねえ。」5000kmを超えてTKC80はパリまで無交換でいけそうな按配だ。どーなん、この耐摩耗性。

僕としては、本格的なダートはもう無いのだから(といって結構あったりする)トレイルアタックをテストしたいのだが。

まあコンチネンタルTKC80、今のところ誰一人として無交換!優れたパフォーマンス、高速走行性能!まさにパーフェクト。誰だね、変な風評を流したのは。

さて、アスタナといえば黒川紀章。世界で最も新しいキャピタルタウンは、国際コンペに勝った日本人によって設計されている。彼は都知事選出たりと急速にナニモノダカ分からなくなってきたが、この一国の首都のグランドデザインを担当したということは絶賛しても良い。良し悪しの評価は後世に委ねるとして。

ひとつは世界の宗教観のコンプレックスがテーマのように見える。またそれは21世紀に生まれた「平和」をシンボライズするかのようだ。まだ60万人ばかりの人口しかない都市は、2日前に訪れたアルマティの趣はもちろん無い。ロシア正教会やユダヤ教会、イスラムのモスクなどの意匠が織り込まれている。それはコンプレックス(融合)のようでそれぞれが凛として主張し、タワーから見下ろす街区はアラベスクなイスラム文様のようであり、イギリスやフランスなどヨーロッパの庭園にみるノーブルなレイアウトの様でもある。

おそらく設計家の彼は世界中の宗教家と、シンメトリーに配された宗教建築を丹念に用いたものだと思われる。

博物館に足を踏み入れた。まことに日本人の知らない独特の文化を紡ぐ歴史が記されていた。トルコ系民族と北方のスラブ系民族の間に雪崩打って流れ込んだモンゴル族。その文化と血が混ざり合って、生み出されたなんとも形容に難い様式美。黄金の甲冑の人形に心を奪われたり、金銀財宝などにはるかシルクロードのかなたの文明の興亡に固唾を呑まずにはいられなかった。

こうして休日は、あっという間に終わった。日が傾いたころ予約してあったカザフ料理のレストランで、フルーティでボージョレを思わせるような、若く甘いカザフワインにカザフ料理が素晴らしいマリアージュをみせた。

その土地のものには、その土地のものが合う、ということなのだにゃ。

追伸:ロプノールの手前で壊したカメラのレンズ。やっと今日アスタナのカメラ屋さんで購入。今日から再び僕の写真でお届けできる予定です。ところでアスタナのカメラ屋さんの棚の下のほうには垂涎?のロシア製のレンジファインダーものが各種勢ぞろい。もちライカマウントも。お値段は、これまた・・・。

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2007/09/21 (金曜日)
行程第11日目 バルハシ - アスタナ 600km

この日、8時出発予定なのだが、おじさんたちは7時40分くらいには出発準備完了!9時にはバルハシから100kmも走っていた。今回のルートは西に向かうものだが、今日は一路北に向かう。アルマティという首都が大地震の恐れがあるというので遷都したというのだが。僕は夏の暑さを避けて北に移動したのではあるまいかと考えた。というのも今日の寒さはひどい。気温は7℃、おまけに時折雨が降る。まっすぐに北に伸びる草原を貫く道は何のためらいも無く、ひたすらだ。まるで僕たちのようだな、と思ったり。

日本も夏の暑さの東京を捨てて首都移転は北海道東辺りが良いんじゃなかろうか?世界最先端の環境共生型の首都を作る。今の時代何も地理的な中心である必要は無い。で夏は冷房が要らないからクリーンだとしても冬はね!?どうだろうね。

正午過ぎには350kmを消化した。道端のレストランは大混雑だ。表には首都アスタナに出稼ぎに行くタジキスタン人やウズベク、キルギスの男たちが溢れていて、みんなで記念撮影で盛り上がった。店は超繁盛店だ!ケーキが食べ放題なんて書けばまたどこかのホテルを創造されそうだけど、プリミティヴで働く女たちは愛想がいい。

道の両側に木々が見え始めるとカラガンダという町が近い。黄金色に紅葉した針葉樹と草原、鈍色の空。向かうアスタナが期待通りの素晴らしい町だと良いなあ。ということで午後5時には楽勝で到着だ。すぐさま?ホテルで大宴会。毎夜毎夜のアルコールが効果的なのか、早々にベッドに向かうおじさんたち。僕も書きながら意識喪失となるのだ。

明日はタイヤ交換などで休息日を過ごす予定だ。そうそうTKC80はまだ6分山なのに。

コンチネンタル、良いですよ。超高速でのバンピーなアスファルト、快適快適!でも後半戦のお楽しみはロードタイヤで走るヨーロッパなのさ。

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2007/09/20 (木曜日)

行程第10日目 アルマティ - バルハシ 640km

すっかり気に入ったアルマティをあとに、アスタナまで一気には走りきれないので中間点のバルハシに泊まる予定だ。アルマティを出ると草原の中の道が延々と続き、振り返ればアルマティが草洋に美しい姿を見せていた。また来ることがあるだろうか、この町に。それほど心に焼きついた町だ。

草原の道はバルハシ湖に向かって北西に伸びる。やがて湖の端につくと、日本人の感覚では理解できない湖であることに気がつく。さらにその大きさも半端じゃない。端から300kmばかり走ると、バルハシという町に着く。それとて湖の端から端というわけでもないのだ。

湖は場所によって塩分濃度が違うそうだ。道端では魚やカニ、その燻製や干物を売る店?が並ぶ。チョウザメのような大きい魚も売られていたので「キャビアある?」と聞くと「それはカスピ海だよ!」との答え。

バルハシにはホテルが1軒しかない。ソビエト時代の古いものだが、そのレストランでは、今夜もウオッカを呷りながら、オジサンタチノパワーハゼンカイダ!!ではアスタナ!

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2007/09/19 (水曜日)

行程第9日目 イーニン - アルマティ 500km

いよいよ中国をあとにカザフスタンに向かう。国境はご他聞にもれず大混雑だ。遅い午後、時計を2時間遅らせてカザフに入国した。

国境の緩衝地帯にイリ川の支流があって、バイクを止めて川に下りた。やっぱちょっとまずいかも。カザフに入ると、かつてパリ北京のときルネメッジガ言った「まるで別の大陸に来たようだ」という言葉が脳裏を駆け抜けた。空気も、風も、草原も、そして道路を覆う深々とした森の木々も素晴らしい。まったく別世界だ。

午後2時アルマティ到着。時差が無ければ午前2時過ぎだ。カザフスタンは思いがけず美しい。1997年までこの国の首都だったこの都市はことのほか素晴らしい。並木道が素晴らしいとかマッチ箱のような路面電車が素晴らしいなどと書けば、何か普通のようでこの町の不思議な魅力は伝わらない。なんと言えばいいのだろうか。巨大な森の中に木を切らずに作った都市だ、とでも書けば分かりやすいだろうか。

とまれここまで行程は予定通りだ。

タイヤの話を書こう。僕たちがここまで使ってきたのは、コンチネンタルのTKC80だ。まわりの予想では、「中国パートを1本で走りきれない」「2000kmがいいところだ」と言われてきた。そこで頑張ってイーニンまでもたせて、そこで交換。交換済みのタイヤは中国に置いていこうと計画していた。

ところがどっこい、素晴らしいパフォーマンスを見せつつ4000kmの悪路のハイスピードライディング!ハイパワーマシン!磨耗なんてまったくない(わけではないけど)。だんだん良くなってきたころだ。言い換えればやっと美味しいところが出てきた!ぐらいだ。

満場一致で「ぜんぜん交換の必要が無いじゃないの!」
「明日以降もこのタイヤで行こう!」
という事になった。

1本も換えてないものだからスペアタイヤの山が当面の問題。僕はヨーロッパステージ用に準備したトレイルアタックに早く履き替えてみたいなあ。と思うことしきり。

ここアルマティでは、ウランバートル出発組みのムッホたちのタンドラも無事に合流。SSER本来のパフォーマンスが発揮できる状態だ。西安からパリへ。ウランバートルからパリへ、そしてACPの北京からパリヘ、という3つの旅が、まるでシルクロードのようにここアルマティでひとつになり、困難を糧にさらに西にむかうのだ。

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2007/09/18 (火曜日)
行程第8日目 ウルムチ - イーニン 700km

西安をスタートして8日目、国境の町イーニンに向かった。今日のハイライトはふたつ、まず左手に聳える天山山脈。このルートが天山北路であることを証明する。ポプラの並木道はいっそう西域のイメージを盛り立てる。どうも樹種が違うようだ。

そしていまひとつは、2000mの高みにある美しい湖、そして峠越えだ。その湖の水は、驚くばかりに清らかだ。道端にはゲルも現れる。風景はモンゴルのそれにも似てくる。峠はアルプスかと思わせるほどで、高度感たっぷりに越えると、ウイグル族なのだろうが完璧にアラブの民の国なのだと錯覚させる人々に取り囲まれる。まさに文明と民族の十字路だ。完璧な異邦人のわれらを、これほど奥地のイスラムの人々はケイタイのカメラの被写体としてわれ先を競う。

いよいよ明日はカザフスタンに向かう。国境を越える困難は待ち受けるものの、一気に変わる世界が興味を駆り立てる。

いや、ここらでこのバイクを礼賛しておこうと思う。

簡単に、今日は700kmと書くものの、その困難な道のりを意図も簡単にこなしてしまうのだ。あまつさえ中国最後の夜の豪華な円卓を平均年齢は限りなく60に近いライダーたちが囲む余裕をもたらすのは、なんといっても世界にこのマシンしかないだろうと思う。

旅の相棒として、最善にして唯一の1台であることは、われわれの旅が保証する。とかなんとか言いつつ、また何かあれば文句を言うに決まってるのだが。

 

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2007/09/17 (月曜日)
行程第7日目 ビバーク - トルファン - ウルムチ 450km 

朝、気温計が2度を示していた。当然吐く息は白い。打撲の痛みなのか筋肉痛なのか区別のつかないような全身。でもまあ頭の中はクリアだ。なんたってここはロプノールからトルフアンに抜ける秘密の道なのだ。そう思うとなんだか、ほくそ笑みたくなる。

いやしかし酒の勢いで、まだまだ続く過酷な道のりを忘れさせても、夜明けとともにまだ砂の深い枯れ川が目の前に広がってる事実は覆いがたい。

それでも幾度も転倒を繰り返しながら、遅い午後にトルファンに着いた。まるでパリダカのころ徹夜して出てきたステージに似ていた。トルファンのあるジュンガル盆地は標高マイナス70mくらいまでGPSが測定した。ここらはまさにユーラシア大陸のアナッポコだ。

アラビア文字の看板やイスラムの様式の村の建物などが、西域というより北アフリカだと錯覚させる。これは国道を旅していてはちょっと分からないだろう。

正面に火焔山(どうもこちらのほうが本物)そうか、これが夕陽に染まったらまさに火焔に見えるだろうなあ、とまたまた西遊記を思い出す。

本来の到着予定地トルファンをあとに一気にウルムチへ向かうことにした。

従来の予定ではトルファンの観光と、ウルムチの博物館に行きたかったので、この二つの近い都市を予定地にしていたのだ。しかしビバークを挟んだものの本来のスケジュールに追いついたのだ。

明日は国境の都市、伊寧に向かう。もう中国最後の町だ。西安から3500km。困難があっても旅をうまく進める方法は、決められた出発時刻には確実にスタートしていることだ。

 

西安-巴黎 絲綢之路 国際越野賽 2007の模様はこちらのサイトにてお楽しみいただけます。写真など随時掲載中!

 


2007/09/16 (日曜日)
行程第6日目 ロプノール - (エマージェンシー・ビバーク) 150km 

旅は過酷を極めた。ロプノールからトルファンへの道は、モンゴルのラリーでゾーモットからさらに南へ向かうような様相を呈した。いや暑さを含め難易度はそれ以上だろう。道は無く、GPSを頼りに枯れ川のなかの、われわれのマシンの最も苦手とする極力避けたいサンドベッドを行かなければならない。

マシンは次々とダメージを溜め、ライダーの疲労も極まる。

まるでトライアルのような下りをラインを探して駆け下りると、もう引き返せないエリアに踏み込んだことを理解しなければならなかった。1台のマシンが転倒で右のシリンダーヘッドカバーを損傷。つづいてほかの一台はパニアケースを全損。スクリーンを破損。そしてイグニッションのトラブルは、いよいよ深刻なものとなってきた。エラーのログがクリアされなくなってきた。残る手立ては、ほかのマシンのキーシリンダーを取り付けて始動時のみ取り付けてまた元に戻すという方法のみだとイリジウムの相手先が言っている。

このトラブルの情報は、すでにあったものなのだろうと疑念を抱く。

しかし完全な締め切りのボルトで固定されたキーシリンダーの裏蓋をはずすなど、時間が恐ろしくかかってしまう。そこでわれわれは「インディペンデンスデイ作戦」と名づけて、キーシリンダーから配線を取り出し、ほかのマシンのキーの情報を送って、コンピューターをだましてエンジンを始動する方法を取った。エンジン始動!大歓声がタクラマカンに響いたことは容易に想像がつくだろうか。

これ以来このトラブルを抱えたマシンは、イグニッションキーシリンダーから怪しい配線を靡かせながら走行することとなった。

そうこうしているうちに、日は大きく西に傾き、極めつきは僕の転倒。枯れ川を横切って反対側の斜面に駆け上がったとき、なぜだか転倒。しばらくは、ここはどこ?いまなにをしてたの?という例の脳震盪。それでも30分くらいで正常?に戻ったものの、この先の路面の困難さやライダーの疲労を考えて、緊急ビバークをすることとした。

ありったけの酒と食料で、日中友好親善のビバークは日中対抗歌合戦で満天の星空の下で夜がふけるまで続いていた。

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2007/09/15 (土曜日)
行程第5日目 敦煌 - ロプノール 420km 

18時40分、ロプノールの湖底に到達。敦煌を出発して巨大な砂丘の連なりを左手に見ながら玉門関へ向かった。はるか地平線の中の頼りない1本の道、そこは茫漠たるタクラマカンだ。ヤルダン地形と呼ばれる奇岩を抜けて、砂の深いオフピストへ。オフロード初体験の二人に、いや今回の旅の相棒として選んだBMW1200GS-Adventure、そいつはこの過酷な道のりの頼りとなるのか、はたまたとんでもない選択だったのか、地平線の陽炎の中に延びるピストを見るにつけ不安がよぎる。

しかし雲ひとつ無い快晴だ。気温は高い。

日が大きく西に傾いた頃、風が強くなってきた。GPSがまもなく湖の東端が近いという。高台から見える、その巨大な湖のあとは、まるで当時のような水を満々と湛えてるかのような幻覚を装う。風はいよいよ強くなり砂嵐となってきた。前進することも危ういほどだ。西遊記のごとくなのだろうか。

20世紀の初頭、世界の探検家たちが求めた「さまよえる湖」子供心にその探検記にどれほど胸をときめかせただろうか。史記には「塩沢」と記されはるかなる異民族の楼蘭王朝が栄えた。この乾ききったタクラマカンに、豊かなオアシスをはぐくみ文明を築いたのだ。

シルクロードの幻として、スエン・ヘディンが発見するまでのはるかな時空を超えて、それは存在し続けた。

それはタリム盆地の南に連なる崑崙山脈の雪解け水が、タリム川となってロプノールまで砂漠の中を潤しながら流れた。

思った以上にロプノールは巨大だった。湖底から湖岸までの標高差をGPSで測定すると500mの水深があったろうことが分かった。東の湖岸から中央部まで,平均時速40kmで走行して2時間近くかかった。

話は戻る。そのタリム川の流れは、自らが運ぶ砂の堆積によって、ある時、大きく流れを変え始めた。灼熱のタクラマカンに、緑をはぐくみ生命を見守ったその巨大な湖が枯れるまでどれほどの歳月を要しただろうか。

まるで現代の人間社会に対して、静かな警鐘を鳴らしているように見えた。それでも湖底に堆積された塩はシュカブラのように、気の遠くなるほど広がっている。おそらく今世紀中、全中国にしを供給してもまだ十分に余るだろうか。

湖の中心部には、湖底の塩を取り生成する工場が操業をしていた。

やがて砂嵐も収まった。しかし夜半から猛烈な雨が降り出した。

「いやあ、ここで雨が降るのは極めて珍しい」 新疆の案内人がそう呟いた。

あたり一面は泥の海と化し、翌朝の出発が気重になった。西遊記の一行のように、何かしらの力で行く手をさえぎられているようだった。

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2007/09/14 (金曜日)
休息日 敦煌

河西回廊の西の果て、ここから西はタクラマカン砂漠というところまでやってきた。朝の涼しいうちに莫高窟の見学に出かけた。世界遺産だ。しかしここも観光地化する方法に少し疑問???

午後は問題のマシントラブルをもう一度対処してみようということになった。夕方西日の時間になれば鳴沙山と月牙泉に出かけてみようと思っている。

人とマシンの疲労を敦煌の休日が救ってくれるだろう。

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2007/09/13 (木曜日)
行程第3日目 張掖 - 敦煌 600km 

ホテル部屋に差し込む光が、今日は晴天であることを物語っていた。西域はもちろん雨は少ない。今日は西へ向かう。酒泉、嘉峪関、歴史の舞台を行く。カヨクカンの古城はまさに万里の長城の果て、涼州詩を思わず口ずさめば、夜光の杯を売る土産屋が軒を連ねている。ずいぶんと観光地化されているのはやむをえないと思いつつも古城を歩くと、ついに来たなあ、との思いがめぐる。1992年のパリ−北京ラリーのときに遠くに見えたあのカヨクカンだ。あの時再び来るんだと心に決めていた。左手には雪を頂く6000m峰が連なるキレン山脈が美しい。

敦煌が近づくと道は砂漠の中を一直線に西に伸びる。火焔山が西日を浴びて西遊記を思い出す。棗とポプラ並木沿いに綿花を摘む農民の姿が現れれば、オアシスの町敦煌が近い。数分間の休憩のあと1台のマシンが理由無くエンジンが始動しなくなった。コンピューターのトラブルのようだ。

バッテリーターミナルをはずして15分くらい放置して、エラーのログをクリアする。しかし、これからエンジンを止める都度この儀式が必要になると思われる。旅の相棒としてこれほどまでに電子制御されたマシンに不信感が芽生えるのは事実だ。ロプノールへ向かう砂の中で、転倒やスタックする都度これを繰り返さなければならないのかと思うと、気分がふさぐ。

いやしかし、ずいぶん時間をとられたが、今回の旅のひとつの目的地「敦煌」にたどり着いた。

敦煌山荘というホテルには、マレーシア王室中国シルクロードツアーの4x4が10台くらい同宿となった。「バイクでここまで来たのか?それは素晴らしい!コングラティレーション!」と祝福を受けた。ここまでの道のりの厳しさと、許可関係などの手続きの困難さを言っているのだろう。

敦煌は夜になっても30度近い気温だが、ホテルの前の屋台では、やはり酒を飲み続ける旅人(大分県人)がいた。

 

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2007/09/12 (水曜日)
行程第2日目 蘭州 - 張掖 550km 

朝、目を覚ますとシルクロードの町は小雨に煙っていた。身支度を整えて雨具を着込んだ。走り出すと思いがけず標高があがる。3500mの峠では気温は8度、やがて山に白いものが見え始める。武威で昼飯、午後には雨も上がり快適だ。そして道路沿いに始皇帝の時代の長城だろうか、遺跡群が続く。夕立にあうが30分くらいで通り抜けた。

この日は遅い夕陽の残るうちに宿に到着した。発展を続ける中国の都市にあって、古き良きたたずまいを残し、モスクに白いスカーフや帽子を纏ったイスラムの西域の民の姿に旅情はいやがうえにも掻き立てられる。明日はいよいよ前半のハイライト敦煌へ向かうのだ。

 

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2007/09/11 (火曜日)
行程第1日目 西安−蘭州 630km 

いよいよスタートの朝だ。これまで準備に費やした時間や情熱を思えば、感慨はかなり深い。高まる胸の鼓動を収めつつ誰もが黙々と旅立ちの支度をする。

今われわれは、かつて洋の東西を結んだシルクロードの東の出発地、西安からまるで遥か過去への時間旅行の戸口に立っているのだ。

盛大なセレモニーに見送られる。西安城南門にある遊園地で出発式典。西安市副市長が西安の空に放つ号砲を合図に、一斉に紙ふぶきが舞う。空は晴れ渡る秋のそれとはいかないが、西域特有の黄砂に覆われたかのようなうす曇り。3日間は河西回廊黄土高原の農村地帯を行く。

ところが西安を出るや、とにかく石炭を運ぶトラックと、無秩序な交通マナーによって、大渋滞だ。

見送りツアーの菅原さんご夫妻、齋木先生ご夫妻ら大勢の方々と130km先の大仏寺へ急ぐ。敦煌の莫高窟を彷彿とさせる岩壁に穿たれた強大な仏像のある寺だ。渋滞のおかげでずいぶん時間が厳しくなっている。

蘭州のホテルに到着したのは午前2時30分。初日から思わずハードな旅となったが、誰もが興奮して目を輝かせている。その証拠のようにこの旅人たちときたら、蘭州のホテルの前にある店仕舞いを仕掛けた屋台を再び営業させて、52度の酒に舌鼓を打って、シルクロードの夜は更けていった。

 

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2007/09/05 (水曜日)
「西安カウントダウン・ブルースその2」

なんかいつもの旅に出るときよか緊張している。そうだ20年前だ。1987年の秋、はじめてパリダカに出かけるので、2台のランクルと5台のバイクを送り出したあとの気分だ。いやひょっとしたらその時以上かもしれない。パリ−北京は1992年だから、それからでも15年かあ。マイレージが嫌いな僕は、「信じられない」という声をよそにエアラインのカードを持たずに、おそらく世界中を飛び回っているジェットセッターたちの次くらいには内外の飛行機に乗っている。乗っているのだが、それにしてもなんか緊張している。いや飛行機が怖いとか、そんな話ではないのだ。

「なぜだろう?この緊張感は」ラリーじゃないからかなあ、とも思う。

そうだ、ラリーという組織されたものの中は、なぜか快適だ。毎日が過酷で砂まみれでも、やっぱり快適だ。だいいち国境を越えるという困難さが皆無だからだ。国境と税関、飛行機で行く時は全く何も感じなかったものが、陸路で越える時の困難さはどうだ。「2日かかった」「1週間かかった」などという武勇伝は、まあ枚挙にいとまがない。やっぱ問題は中国からカザフだ。ああこう書けば書くほどに心配は増幅される。ボクって心配性だったんだ。

イベントの主催者は心配性なほど良い!とはボクの過去の持論だが、モンゴルのラリーを心配性でやっていたら、こちらがPTSDになってしまう。ということは実は楽観主義者かもしれないとも思う。準備は心配性で、実行は大胆にがよろしい。

いや話が訳がわからなくなった。いずれにしても週末はクルマで北京。清朝末期の動乱の舞台「北京飯店」で晩ご飯。そして取って返して西安。「西安を見ずして中国を語るなかれ」という言葉がある。いや「あったっけ?」それは「ベニスを見ずしてイタリアを・・・」だっかな?いや、そんなこんなでボクの小鳩のような胸は張り裂けそうなのでありました。

きょうの一枚
横浜船積みの時のマシン・・・平均年齢56.2歳のユーラシア横断隊。明日の夜にはこのマシンたちとご対面叶うかな?頑張ってデキルダケ毎日、写真と旅行記?を送りますね。


2007/09/04 (火曜日)
「西安カウントダウン・ブルース」

西安の街区にもそろそろ秋の気配が濃くなっているのではないだろうか。街路のマロニエの木々にも、タップリとしみこんだ夏の余韻を漂わせながら、大陸の早い秋の陽に長い影を落としているんではないだろうか。そうだ、確か西安の市木は「ザクロ」いまは実りのシーズンではないのか?道路沿いにいつつ果てるとも知れないほどのザクロ畑には、これまた延々とザクロ売りの莚が並ぶのだ。

柘榴の原産地はイランのザクロス山脈だそうだ。花言葉は「円熟の美」中央アジアを越えてよく日本まで、と思うほどにこの地のものは日本にやってきている。それにしても円熟の美とは畏れ入った。いつから西安でこのようにザクロが産されるようになったのだろうか。

今回の西安-巴里と並行してチームACPは、プリウスで北京-パリを走る。あちこちで合流し、ともにロプノールにビバークを張り、いつかまたカザフやロシアで旅の道連れになることは間違いない。彼らは、黄河から始まるユーラシアの河川の水質測定をしながらヨーロッパに向かうそうだ。そういえば大河にはたくさん出会う。僕が目指しているのはイリ川、ボルガ、ドナウ、ラインなど大量のクラシックの名曲をi-podに詰め込んだ。

さて彼らは川を辿る。ボクは何をしようかと考えた。そうだ「木」だ。木々を撮ろう。ユーラシア大陸の並木道と、古木、巨木、林、森・・・どれだけの木々がこの道のりでボクを迎えてくれるだろうか。ユーラシア大陸の奥深いタイガ、ドイツの黒い森、北半球に酸素を供給し続けるバイオラングだ。

横田さんの巡る「水」ボクの巡る「木」さて、テーマは無限にありそうだ。

きょうの一枚
ということで今日の一枚はゾーモットの木。もっと木の名前を覚えたいと思う今日この頃。


2007/08/31 (金曜日)
朝テレビを点けたらNHKの四国版のニュースにボクが出ていた。そういえば昨日に高松であった会議にカメラが入っているなあ・・と思った。予期せずに自分の姿をテレビで見るというのもなあ・・・で、太っている。「ボクってデブ?」「自分の姿は、人が見ている評価のほうが正しい。ことほどさように自分の会社の姿かたちは外の評価にゆだねなければならない」。とかね、言うんですよボクは。今日は朝から久万高原町でSSER 2DAYS CLASSICSの開催についての役場の担当との協議会。23年目の大会は・・・最近騒音問題などもあって苦情が少なくない。車検ではあんなに静かなバイクたちが山の中では豹変する。これも、自分たち以外の評価によらなければ危うい。

ところで、ここんとこのモンゴル。ホジルトだとかハラホリンだとか、かまびすしい。地名がポピュラーになるのは良い事だが・・・それにしても・・・日本側の主張もマスコミの狂騒ぶりもわかるけど・・・これも視点を変えてみればいい。日本人メジャーリーガーの誰かが、思いっきりバッシングされて、しかも“悪意に満ちた”(と取られかねない)マスコミいっぱい引き連れて帰ってきたら・・・やっぱりこちらの国民感情としたらねーー?「寄ってたかっていじめやがって」とか「根性曲がってるんじゃないか?!」と思うよね。でもって、こんなことで2国間の関係が悪くなるのは避けたい。

モンゴルでの日本人に対する好感情は、すでに相当に悪化しているようだし・・・だいいち古式騒然たるこちらの概念だけ押し付けてもねえ。

彼らからすれば、横綱もボクシングのチャンピオンも、同じ格闘技のチャンピオンで、それならあのボクシングの態度の悪い男はどーなの?とボクは思うのだけど。

ボクが小学校の頃、病気で学校を休んだ夕方、校庭で野球をしていて先生に見つかった。
ボク「ヤバッ」
先生「アレ、もう良くなったの。良かったねえ。明日は学校来れるね。」だって。
先生は相撲協会よか立派だ。

きょうの一枚
一昨日に続きBTOU2007より、もう一台のジムニー・・・こちらもご存知APIOの尾上さんに松田さんのペア。ジムニーの超スペシャリストというか神様。でもマシンが10年前のものらしくて・・・。


2007/08/30 (木曜日)
「もうすぐ出発だ!」

事務所の椅子を温める暇もなく、再び旅立つのだ。今までの旅とはちょっと趣の違う?団塊の世代の大冒険!果たしてこの過酷な道のり・・・特にロプノール周辺の砂漠地帯、天山南路・・・ここは中国軍参謀本部からルート変更の指示があってロプノールからチュルルクへのルートを、途中から北へ変更し天山南路から北路へと砂漠を越えることとなった。トルファンやウルムチ周辺、そして中国国境からカザフスタンへの越境!!カザフスタンはこの春からジュネーブ条約をはずれたので、カザフスタン国内を走るためにまた努力が必要になった。そしてロシア国境・・・サンクトペテルブルグからエストニアへの国境の橋を渡るのに1日はかかるといわれていて、気の短い団塊の世代の旅人たちは、こうした時間に耐えられるか?というか僕が耐えられるか?ということ。あー心配。

でもバルト三国「エストニア、ラトビア、リトアニア」を走るのはとても楽しみ。それぞれの日本大使館に電話・・・この国々では日本人は尊敬されているようです。でも「日本人がバイクでツーリングする?聞いたことないですね。」とか言っていた。尊敬されている理由のひとつは、リトアニアの領事だった日本のシンドラー杉原千畝のこともあるのだろうか?彼の言葉「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった」様々な圧力や同盟国ドイツの意に反して、6000人を越えるユダヤ難民にビザを発給し続けた。ビザ・・・簡単に言ってしまえればそれだけだが、今回の旅に同行させる予定のモンゴル人スタッフ、ジャンガルとムッホたちは、とにかく各国のビザの取得がことのほか難しい。地球上は国境と不合理でまだまだ20世紀の枠組みのままだ。

きょうの一枚
もう出来上がっているボクの旅支度。人生のなかの五指に挙がる壮大な旅。でも荷物多すぎ。


2007/08/29 (水曜日)
「それでも秋はやってくる」

暑かった今年の夏ももう終わり?今日はお昼前から、きっと日本が熱帯になっているという証明のように、いきなりスコール!!とともに気温も下がり、すっかり秋の気配に。思えばこの夏は避暑のように北海道、モンゴルしかも北西部でダウンジャケットを思わず探したくらいの気温で・・・でね、ボクは「暑い!」と言うのをやめたんです。で、「なんか今日あまり暑くないね」とか「おや、案外涼しいんでないかい?」とか・・・ちょっと馬鹿にされたりしますけど、クーラーはガンガンに効かせていますけど、まあ気は心な暑気払い法ではあります。いずれにしても、まだ季節は回っています。地球も傾いたままなのでしょう。地磁気もちゃんとコアの発電が停まらないことによって・・・。

さて、心配なのは新疆ウイグルの初雪のニュース!!さらにロシアやバルト三国の気温・・・そーいや1992年パリ−北京であのガストン・ライエはすんごいバギーで登場!モスクワ近くの深夜の国道「道端に合った残雪に乗ってクラッシュ!リタイアだよ・・・」と菅原さんのカミオンの荷台でのオハナシ・・・寒いのは寒いけど「残雪」ってのはどーなんだろ。と今日も皆様に残暑見舞い的な、涼しい話でした。

「ウランバートル日本語通訳バブル勃発」
SSERウランバートル支局からの連絡によりますと、まもなく朝青龍がウランバートル空港に到着するので「空港にいる」そうです。日本から大挙押し寄せてくる報道陣!!の要請にこたえるべく日本語通訳たちが、片っ端から高値で吊り上げられているようです。まあ日本のマスコミの狂騒ぶりは容易に想像がつきますが、モンゴル人たちから呆れられない事を望みます。

きょうの一枚
BTOU2007から、今年はジムニーで参戦のスガワラサン!どーもジムニーにはまった感あり。「よく走るよ!これ」だそうな。


2007/08/28 (火曜日)
「晩秋の九州ツーリング・・・」

えー、昨年のBTOUで負傷された西村さんが、別府で元気にリハビリに取り組んでいます。「別府?じゃあ、温泉に入れるん?」「だめなんです。」てなことから「外出は?」「できますよ。」「じゃあ、みんなで紅葉のやまなみハイウエイをツーリングしよう!」ということで、SSER 2DAYSの翌々週または翌週に、BTOU2006?の関係者の皆さんともども「西村さんを応援する会ツーリング」を実施いたします。ただし定員極小数。もちろん西村さんは車椅子ですが、受傷後はじめてのおでかけ!になります。有志の方、よろしく。でツーリングといったってバリバリのオフロードライディングスタイルで来てもね?!

「TBI 20年」 
石の上にも3年だとか、桃栗3年 柿8年だとかいうけど・・・TBIは20年です。エヘン!正確にはTDNの3年間は算入すべきか否かって議論がスタッフの中ではあるけど、いいじゃん。はじめてから20回目、つまり20年目だ。今からボクは四国地図とにらめっこしながら、新しい?ルートセッティングに、心を砕いている。でも最近ときたら、西安に行って四国八十八ヶ所の0番札所「青龍寺」の管長とお目にかかったのね、(遣唐使として空海が訪れて勉強したお寺だ。)すると、どーして空海が八十八もの寺を建立したか、どういうからくりがそこに存在したのかを研究してやろうというか、そんなことをTBI 20年目のルートプランに繁栄できないかというミステリーツアーみたいなことを考えている。最近の四国遍路ブームはすごいのね。TBI=四国遍路、巡礼の旅。

きょうの一枚
西安の青龍寺。ここが四国零番札所。


2007/08/27 (月曜日)
「記録的な暑さ」

世界陸上を見ていた。3000m障害。ハードル(というか固定された飛び越える障害物)に顔面から激突してコース上に転倒した選手がいた。「首が危ないなあ」しかもハードルを越えたすぐのところのコース上で倒れている。後続からはブラインドだ。モータースポーツなら完全に赤旗中断の場面。1分後にはまた走者が差し掛かる。まだドクターは駆けつけない。競技役員が選手たちを、アウトからハードルを飛び越えるように誘導?これってトラック競技としてはどうなのか?タイムは競っていない予選だからいい?のかなあ。

しかもそのあと、首の負傷も考えられる選手の頭の下に手を入れて普通の担架に乗せる。この映像が世界に流れるのはまずい・・・「うう、スクープストレッチャー使わんでいいんか?」軽症ならいい。いや軽症であることを祈らざるを得ない。

何が言いたいか?やっぱり暑すぎるんだろうと思う。なにかのCMでは、水分の2%を失うとパフォーマンスの30%を失う!と言っている。(科学的な根拠はともかく)とにかくマラソンのリタイアも、3000m障害などの転倒事故も多い。

解説陣もその理由は「暑さでしょうね」と。しかし暑さは予想され懸念され、主催者も参加者も覚悟の上だったろう。しかしそれを上回る暑さだったんだろうか?たとえば開催地、札幌!とかではダメだったんか?

でも暑いと空気の濃度は下がるから空気抵抗がさがって、短距離などは記録が出やすい!なんてことはないでしょうか?ないですね。

その暑さ、モンゴルを開催する際も相当の懸念材料です。砂漠のラリーは、いずれにしても1月に開催されるダカールを除いては、暑さと闘わなければならない。これから9月10月と開催されるラリーや、4月5月に開催されるもの。これからの競技者は、いや一般市民も、暑さに対する医学的な対処知識を持たなければなりませんね。

モンゴルは今年は西北部を使ったので涼しくて快適!!でした。さて、西安からパリへの旅は、初雪の知らせもあったり・・・しますね。

きょうの一枚
2年目のFJクルーザー。松野さんドライブ。なんかサイズの割りに軽そうな感じ、ルックスもなかなかです。んで、ハヤイ!!


2007/08/24 (金曜日)
「忙しいぞ!」

もうすぐ西安に出発する僕は、なんかマークされている?んじゃないかというくらいに忙しくなってきた。とにかく打ち合わせ!が多い。しかもそれは僕のいないときに行われるモノだったりするので「そん時ャ、いないしなー」なんて逃げたら人格を疑われそうで・・・で打ち合わせの最中に「気の聞いたジョークでも・・・」と思って言うんですが、切れがないんでしょうな「ハ、ハ、ハ」とかって、もうお義理の笑い。やる気を見せとかなきゃ!と、突っ込むと「ええーっ」と、はずしていたりする。プロ野球の選手が引退を感じ始めるときのような・・・まあそんな気分です。

しかも忙しいと言うのは、2〜3か月分の仕事を2週間(しかいない)でやってしまおうということの無理がたたって・・・しかも夏の後始末も、SSER 2DAYSの準備も・・・という事なのでした。

でもそうだからといって何ひとついい加減にしませんから大丈夫ですけん。と書きながら電話は飲み会に「早く来い」の催促。夜も更けてきたっちゅうのに。

きょうの一枚
SSER 2DAYSを走る池田秀仁。BTOUもなかなか頑張っていました。さて、秋の夜長の戦いもタノシミタノシミ・・・。


2007/08/23 (木曜日)
「もう秋です」

残暑は厳しいのですが、もう秋です。なぜかというとSSER 2DAYS CLASSICSの準備が始まったからです。なんと今回23年目なのですねえ。第一回大会は1985年の9月15日前後だったと記憶しています。準備を始めたころは、まだ田植え前で、稲が育ち夏雲がわき、道筋であいさつで立ち止まると、とれたてのトマトをいただき。夕暮れにもなると、ジャケットが必要なほど寒く。ルート製作して帰る夏の夜に、日航機の行方不明のニュースを聞いたっけなあ?としみじみ。いつの間にか黄金色になった稲穂と畦道の彼岸花の血のような赤とのコントラストに、深まり行く秋を感じる。まあこれがSSER 2DAYSの記憶の23年間・・・ほんとうに夢のような日々でした。愉しくて懐かしくて、どこか切ない。秋の夕暮れのようにか細くて、でも多くの夢を育んできたかけがえのないものとしてボクに人生の中の多くの部分を占めてきたのでした。

8月中に多くの作業を終えて、9月には西安へ。その久万高原から始まったボクの夢は、実現しつつあるのかなあ。そんなこんなで「DREAM of AUTUMN NIGHT」秋の夜の夢・・・ぜひ、そんな晩秋の2デイズにもお出かけください。

西安5デイズのツアー・・・間もなく締め切りです!!お見逃しなく!!

きょうの一枚
夏の西安の朝、城内を歩いているとトラックが止まって、いきなりスイカが売られ始めた。スイカは安全な水分を摂る、または持ち運ぶ?のにも有効だ。中央アジアの砂漠地帯では、スイカ売りが旅人らの命の水だったりもする。


2007/08/22 (水曜日)
「いく夏を惜しむ?」

事務所から南の空に大きな積乱雲が輝いていました。モンゴルの大地では逆立ちしても見られないものです。その威容は、子供のころに入道雲と呼んでいたそのもの。田舎で過ごした夏。川遊びをする頭の上にモクモクと湧き上がる入道雲。麦藁帽子、虫取り網。あーあ、子供のころに帰りたい!!お昼寝して、スイカ食べて、花火して・・・と。果たしてボクがそんな少年だったのか?というのは別だけど。

西安行きのコンテナ貨物が天津を出て、一足先に列車の旅で内陸部に向かっています。西安には歴史の舞台のひとつ渭水(いすい)があります。この川は黄河の支流のひとつで三国志にも良く出てくるもの、まあ歴史の舞台です。最近はこの川の水量も激減。内陸部は水に関するイエローシグナルが点灯!黄河も中国の歴史をはぐくんできた大河ですが・・・間もなく海に届かなくなるという話も。取水量が激増しているのでありますな。

ロプノールのタリム川、ジュンガル平原(いまのカザフスタン)のイリ川・・・ボルガ、ドナウ、ラインと世界の名だたる川を旅する今回の西安−パリでは、もうひとつの見どころ「今世界の川はどーなっているのだろう?」

やっぱいく夏を惜しむなら「川」ですね。

きょうの一枚
モンゴルでは古くから水に近づくことは忌避されていたのですが、最近では美しい川で遊ぶ人や釣り人らの姿を良く見かけるようになりました。やっぱ川は良いです。


2007/08/21 (火曜日)
「冒険の旅とはなんだろうか」

よくわれわれのラリーカテゴリーをアドベンチャーラリーと呼ぶことがある。マシンのカテゴリーもBMWやKTMのアドベンチャーとネーミングされたものは、一様に長大な航続距離を実現したものに冠せられる。85年に巨大なタンクの純正装着されたBMW80G/Sにクラクラときた僕は・・・といっても当時テネレも所有していたりした・・・この当時は、パリダカールに憧れること出場することは、つまりアドベンチャーだった。

ちょっと待てよ、アドベンチャー=冒険とはなんだろうか?

ちょっととりあえずWikipediaから
「冒険(ぼうけん)とは、日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くことである。あるいはその体験の中で、稀有な出来事に遭遇することもいう。こうした冒険の体験者は多くの場合その体験報告を書いたりするが、荒唐無稽と一笑に付されることもあれば、またその内容に驚嘆されることもある。こうした冒険に敢えて挑戦する人のことを冒険者(ぼうけんしゃ)と呼ぶ。冒険には危険や、成果を上げられる確率の低さがつきもので、この意味でいつの時代にも未知なものへの挑戦、探検もすべて冒険と呼ばれてきた。新しい海路の開拓、山岳、アフリカの奥地、知られざる文明や文化の探索、自動車や航空機の速さへの挑戦など、すべて広い意味での冒険である。語義は「険(けわし)きを冒(おか)す」。あぶないところにあえて(勝手に、ひそかに)入っていく意。英語adventureは投機、山師の意を含む。ラテン語ad+vent(外から来る、外からやって来た(〜事件))。」

まことにそのとおりであると思う。

しかしBTOUはアドベンチャーラリーとは称していない。あくまでもクロスカントリーラリーなのであるから、競技の一形態にほかならない。ところが定義のひとつに冒険とはその成功の確率の低さにあるとも言っているわけで、完走率の低いラリーに出ることはなにか冒険心に近いものを感じるのであろうと思う。

しかし冒険とはそんなことだけだろうか?とも思う。

進退窮まった岩壁の中途で、単独で越えていた砂丘で転落した時、まだ衛星通信などのない時代のゴビ砂漠で、全ての機能を失った時に、そこで見た凄絶な風景はいまだに僕の心を捉えて話さない。

さて、次は西安-パリに出かける。いかなる冒険の旅になるか?はたまた快適なツーリングになるのか?敦煌から西に向かうルートの情報が鮮明になるほどに、平均年齢が50代後半のGS-ADV.部隊にどれほどの困難が待ち受けているだろうか?

きょうの一枚
BTOU2007総合優勝を最後の一日で逃したボルドバートルのお父さん!!はなんと自作バギーで完走!!愉快な親子でありますな。プレセレモニーでは、完走メダルを息子から首にかけてもらい感激!!してましたね。


2007/08/20 (月曜日)
「日本は暑くない?」

今朝テレビ見ていたら、エアコンの使い方?をやっていました。するとなななんと睡眠時に3時間のおやすみタイマーで快適気温−1度に設定、そのあとすかさず目覚ましタイマーで+1度に設定すると良く寝られるんだそうであります。ということは「つけっぱなしかい!」と怒っています。キット抗議の電話も少なくなかったことでしょう。つまりもうエアコンはつけっぱなしをメディアも推奨しているわけで、一方で政府や大手企業の主張するマイナス6%クラブとかってやつはヤメ?

で、モンゴルから帰ってきたボクタチハさぞや暑いだろう!いい気味だ!と思いの諸兄!・・・ソノトオリダス。でも今年のモンゴルはね、とにかく死闘!!ホントウニ熱い戦いの日々でした。それに比べると、打ち合わせや会議に追われる日本の僕の生活なんざ、常にエアコンのあるところばかりで、環境問題はともかく「暑くない!」のでありますよ。

熱いのはあの4000km走って、7秒差で最終SSのスタートに向かう池町とボルドバートルの目・・・シビレました。思わずカウントダウンする指も緊張で引きつったりしたくらい。こんなシビアな戦いの中に身を置くのは競技者冥利につきますね、まったく。こんな時にルートブックにミスでもあれば・・・とビクビク!!!でもブルーシーさんいわく「ルートブックはパーフェクト!!」だそうで、お褒めをいただきましたがな。池町選手は「どーしても1箇所違う!」と主張していました。でも本当は正解!!だと証明されたりなんかして・・・。

でルートブックは別々の2台の車で作成されています。そして1号車が書いたものを2号車のコマ地図を校正用に使います。コーションの解釈の違い、距離の大きなミスはないか、方向指示に誤りはないかなどです。それでも2つのルートブックがあるコマで左右別をさすものが1つくらいあります。その時は白熱した議論が繰り広げられるのですが、時にはグーグルアースにも参加していただいたりします。これからは全てのコマをデジタルカメラで押さえて、緯度経度などとともに・・・と考えてみたり、いやアナログな部分を残すことが、こうしたラリーの味わいになるのではと考えてみたり・・・。

とにかくこの夏にご参加の皆さん!応援の皆さん!ありがとうございました。


2007/08/20 (月曜日)

[BTOU2007総評] 1995年にスタートしたRALLY RAID MONGOLから13年目の大会は、これまでの中でもっともスリリングな優勝争いとなり、また最も記憶に残る大会となりました。特に今大会は夏のゴビ砂漠の炎暑を避け、モンゴル北西域での開催、これには驚くばかりの風景の連続に各国からの参加者にも、深い感動を与えました。

優勝は前日までに7秒差にまで追い詰めてきた昨年の覇者、池町佳生がついに最終日、執念の連覇を手にしました。最後のSSのスタートのカウントダウンは、主催者側オフィシャルスタッフも緊張をしたというほどです。この熾烈な戦いは多くの参加選手も注目し。モンゴル人ライダーを中心としたKTMチームのポテンシャルの高さは、相当なものであるといえます。

閉会式会場ではドイツから来られたBMW Motorad General Director Diess氏も池町佳生とがっちり抱き合い、ともに初投入のマシンの堂々の戦いと勝利を祝いあっていました。チームX-Challengeのチームメイト、ダカールの名手ジャン・ブルーシーは、ウランバートルではじめて対面したニューマシンで、ラリーに望み1日目のガス欠で順位を21位にまで落としながらも、急追しチーム賞獲得の原動力になりました。また昨年2位の池田秀仁はブルーシーのガス欠のサポートや、自らのパーツをブルーシーに渡し見事サポートに徹しました。

これはモンゴルKTMチームにも見られました。絶対優勝すると意気込むガントルガは通算5勝のまま。エタップ4のスタート時のアクシデントを、これも急遽もちろん優勝圏内にあったハマー選手が自らのエンジンパーツを渡してリタイアし、全てをガントルガの6勝に託すという場面も見られました。

とにかく自らの道を切り開き挑戦するという姿勢は、全ての参加者のゴーグル越しの目からもはっきりと感じ取ることが出来ました。本当に素晴らしい大会を演出していただいた多くの参加者に、心からの御礼を申し上げたいと思います。

来年はウブスの東岸に広がる砂丘地帯を少し深く、そしてオリアスタイから北に広がる、かつてガストン・ライエとロワゾーが「美しい」と語ったデューンにビバークを設けましょう。熱い戦いがこれほど素晴らしい感動と、参加者の美しい友情を育むものであるということを、心から印象付けられた今大会でした。

07/08/17
SSER ORGANISATION
山田 徹


2007/08/01 (水曜日)
「キビシイー!」

「どーすか?キビシイですか?」
「いやあ、キビシイですねえ。」

と、こんな日常会話、みなさんも良く使いませんか?キビシイー!って。安倍さんも「キビシイー」もちろんボクも「キビシイー」状態でありますが。はて、キビシイ状態とはいったいどういうことなのか?ちょこっと考えてみることにしました。
ボクは思うのであります。キビシイ!という状態は、あなたが悪いのです。いやつまり僕も悪いのですね。要は計画をきちんと立てて、進捗状況を注意深く見守って、不足なら努力し、足りていればさらに上積みを考え最善を尽くす。そうすればキビシイ状態というのは、やってこないのであります。ところが人間「人事を尽くして天命を待つ」とか「ケセラセラ」とか「アスタマターニャ」とか「果報は寝て待て」とか、まあ枚挙にイトマがないくらいに「なんとかなるさ」というふうに、大したことをしてきた訳でもないのに、油断が出来るんですな。
それが事に及んで「キビシイー!」状況となるわけです。安倍さんもまたしかり、なのであります。これをラリーに置き換えてみたりなんかします。パリダカの過去の語録はマーフィーの法則とピタリ。「失敗する可能性のあることは、必ず失敗する」とか「心配は必ず的中する」「用意したスペアパーツは重しにしかならない。用意しなかったものが必ず必要になる。」「強いものには易しいが、弱い者には厳しい」つまり油断・・・ですな。別にオイルを入れ忘れてリタイアをする!という語源ではないのでしょうが「油断」なかなか趣のある言葉です。つまり「厳しい状態」の原因は「油断」にあるわけです。

そう、ボクは油断してたことになります。安倍さんも。みなさんは、モンゴルへ!ウラジオストックへ!西安へ!それぞれ出かけるわけですが、どうぞ油断なく。さすれば「キビシイー!」状況に陥ることなくラリーを、また旅を心から満喫できるのであります。

さて、ボクのパスポートはどーなりますことやら?!そしてビザは?キビシイー状態は続きます。あっ、それから。厳しい状態は、さらに厳しい状態を招きます。
「まあ、なんとかなるだろー・・・」

きょうの一枚
北海道4デイズから。
SS-2、2004年ガストン・ライエが最後のライディングとなった芦別市にあるグラストラック。周囲は住宅などがあってまさに市街地。後ろに見える建物はなんだろう。グリーンのトラックに黄色いコーステープ、カラーコーディネイトされたようにソノートブルーのテネレが駆け抜ける。


2007/07/31 (火曜日)
「台風5号が接近?」

既にウランバートルに着いていなければならないボクは、万難を排して出かけなければならない!!外務省などの関係機関の人も「人道的な理由なら何とか出来るんですがねえ」だって。

「???」
「人道」とはなにか?という議論を役人とするのを避けて、人道的なら出来るということはボクのモンゴルへ行くという行為は人道的ではないということ?つまり非人道的な行為!というのだろうか?
無理したら出来ることなのだろうが「本人の不注意でそうなったものを、何故特例で救済しないといけないのか?」という理屈を吹っかけられる。「あっいや、そーじゃない。ただただ困っているのだ。困っているのを助けてくれるのも広義の意味では人道的行為ではないのか?」などと思う。

まあ、パスポートを、半日で再交付せよと言ってるくらいのことが!!「えっ、十分無茶苦茶?」でついでにビザも問題なのです。昨年はノービザで行けたモンゴルなのに!!それに僕がなくしたパスポートにゃ燦然と輝く真新しいビザが・・・あったっていうのに!!どーしてもボクは8月3日の飛行機に乗る!!乗らなければならない。そーでなければ万死に値するってのに。なのに、なのに、台風が接近中!だって。まー、どーにかなるか?

で、話は変わりますが、今年の夏って暑い??なんかここんとこ涼しいような気がするのですが??でも蝉シグレ、スゴイネ。藤沢周平のせみ時雨のような美しい日本は安倍さん!道のりはお互いにはるか!だねえ。

きょうの一枚
A-TECクロスカントリーラリー北海道4デイズから。幌延のSSを走る村田竜志XR650、もち総合優勝!!


2007/07/30 (水曜日)
「ギャーーーー・・・・・・・」

全くなんという大失態!!西安からの帰り便が随分遅れて、関空-松山の接続がアヤシクなったあの日。ボクは関空のイミグレーションとカスタムを風のように駆け抜け(本人がそう思っているだけで・・・)ANAの国内線カウンターに飛び込んだ!!のでしたがタイムアウト・・・定時運航に命を懸けるANAの前では、ボクタチなんて。

それではとバスに乗り伊丹へ。そして松山。事務所は明日の横浜へ向けての出発でごった返していた。GS-ADVが事務所に所狭しと並んでいて、スポンサーステッカーやゼッケンを貼ったり・・とにかく足の踏み場もなかった。時計を見るともう10時を過ぎている。

明日の早朝にバイクで出かけるので、その準備は少なくないのだが、留守中にたまってる仕事でプライオリティの上のものから片付けることに。でもすぐに「あっ、もうこんな時間!!」まだ封を解いていないBMWの純正パーツの段ボールやらウエアのケースが山積み・・・でもって翌朝は、疲れた身体に鞭打ってアドベンチャーで睡魔と闘い、暑さと戦い。

横浜のホテルの部屋・・・「あれ、ボクのパスポートはどこだ?」いつも仕舞ってるかばんの貴重品を入れるブース。財布しかないぞ・・・それからというもの、事務所を上げての大捜索が始まったことは想像の通りです。電話をかけた先といえば、もうほかにどこを思いつくの?というばかり。ここでそれぞれの電話の対応の違いが面白い。それはさておき。モンゴルに向けて最後の作業をする昨日の日曜日も、作業の手を止めさせて相変わらずの大捜索。遂に僕のパスポート捜索大作戦は失敗に。予定の明日の出発便に乗れる可能性は今のところほぼ0%。ラリーの開催は問題ないと思われはしますが・・・遂に再交付申請・・・できるのが8/2、もうビザを取っていたらラリーはスタートしてしまう!!しかも飛行機はどの便も超満員!!はたしてボクの運命は以下に。

「・・・・・・」
「こんな大失態って。」

ということでパスポートを紛失するということの重大さを再認識。まあ西安とかでなくしてたら悲劇はもっと大きかったろうと思うと、不幸中の幸いともいえます。

皆さん、どこかでボクのパスポート見かけたら、お電話を。でももうそれは失効?!で、新しいパスポートが届いたら、最後のページに「このパスポートを拾った方には、薄謝進呈。至急ご連絡ください。」と書いておこう。ことの詳細はまた明日。

きょうの一枚
横浜「西安-パリ」に船積み。Expedition・・・ボクの最も好きなコトバ。そんな雰囲気「人生とは、エクスペディションだよ。」このときは実はパスポート紛失に気がついていて、少しブルー。


2007/07/24 (火曜日)
明日帰りますが、帰ったらすぐ横浜に行きます。四国からは九州組みの2台と合流して高速道をアドベンチャーのコンボイ。サポートいただいているタイヤなどの搬入!!のために車もモチ行きます。あと北海道や岩手からもアドベンチャーが南下してきます。平均年齢56歳のアドベンチャー大陸横断チーム・・・道のりは遥かです!!でもACPは2人で132歳というコンビも行くのでありますな。

きょうの一枚
陽炎にゆれるハイスピードなゴビハイウエイ・・・ちなみにゴビハイウエイという呼称はSSERオリジナル。でも今ではモンゴルでも標準化!


2007/07/23 (月曜日)
西安に来ています。何故にこれほどに西安にこだわるのか?来れば分かります!!ということでツアーも9/9出発チャーター便!到着するや政府主催のセレモニーとオペラのような壮麗な式典・入城式など超スペシャルなもの!!オタノシミニね。

ところで、最近の中国はなにかと食の問題!がおおいのでしょうが、西安で食べる中華料理は旨い。一番僕がおいしいと思ったところで、西安-パリ出発前夜パーティ!といきますか!?でね9/11のスタート後も50kmくらい一緒に走ろうという企画も・・・準備中!!

きょうの一枚
BTOU2007の試走ミニ写真館より。365・・・どこからの距離だろうか?


2007/07/20 (金曜日)
梅雨の名残りか、いましがたから雨が降り出した。梅雨の末期の集中豪雨はまだなのかな?九州南部は梅雨明けするらしいなあ・・・と、そんなこんなで、ADV.の慣らしをしなければならないのに、時間が無いのだ。まだ200kmしか走れていない。どうしてこれほど時間が無いのだろうか?そして来る7月26日には船積みに向けて横浜に移動なのだが、困ったことに25日まで西安の出張が入っている。暑いんだろうな?乗り継ぎも多いしなあ・・・政府主催の晩餐会?!もあるので、余分にスーツ1着はいるだろうしなあ・・・。

まあ、そんなことはいいや!僕のマシンに残された時間は明日のみだ。明日800kmは走りたい。でも体力と時間が絶望的だ。しかも雨が降りそうだし。1000km点検してオイル交換して・・・そんで横浜へ走る。大変だあ・・・といいつつもどこかはウキウキしている自分がある。やっぱり楽しいんだろうか。西安-パリはボクも参加者として臨むのだ。

ところでボクは、バイクに乗り始めて何年が経ったろう?リーガルに乗り始めてさえ36年が経つ。でもこの10数年間はほとんど乗っていないことを告白しよう。最後にしっかり乗ったのはこのHPがスタートした1999年11月の初めてのガストン・ライエ・ミーティングかもしれない。いやそれすらも「何年ぶりだろー?」といいながら乗っていたような気がする。そのあとは酷い五十肩が左右で3年ずつ続いて、服の脱ぎ着さえ大変な時間が続いた。仕事も超絶的に忙しくなった。それは「自分のやりたいことだけをする!」と決めてからのことだ。

そんなこんなを含めて、今回の旅はボクにとって、とても大きな存在なのだ。様々に巡らした思考も、中国西域へのはるかな思いも、なにかこう逃げて行く陽炎を追うような虚しさから解き放たれて、現実に何かを掴み取るのかもしれないかな?と思ったりもする。

北海道4デイズ・・・予想以上の反響に感謝いたしております。もちろん継続開催をお約束いたします。

きょうの一枚
「コロポックルのゲル!」まるでモンゴルの草原のゲルのようですね。干草を今頃はサイロに入れずにこうしてビニールシートで包んで蒸すのですね。ちょっと醗酵してやわらかな美味しい干草になるというわけです。コロポックルを連れて帰りたいなあ、お世話係に。


2007/07/19 (木曜日)
やはり触れなければならないだろうか、それは夕張市のこと。行かずに語るの(多くの知識人)も問題があるが、行って見てしまうと、なにか身に覚えがあることでもあるかのごとく語るのがためらわれる。つまり知らずに語ることがたやすい、と言うことかもしれない。知ってしまえば、なんともやり切れないものが咽喉のつかえのようだ。そこでは、抜けるような青空が真夏の真空のように悲しく、SSのゴールは繚乱の花畑の美しさが寂しさを引き立てていた。レースイのダートは、上り下り、そして左右にさまざまに描くRの曲率の変化も路面のコンディションも、実に見事な構成で、名のあるラリーストが監修して作った唯一の林道だと言っても疑われないほどだ。

北海道4デイズは、こうして美しい北海道の光と翳を眺めた。光を観るから観光ではある。でも翳も目に入ってしまう。見るべき人はややそちらを多く見る。光は美しくとも必ず影を纏う。その陰翳こそが実は美しい。「蒼穹の昴」のなかで乾隆帝は、ヨーロッパの絵画の光と影をことのほか礼賛していた。そういえば中国の絵画は色鮮やかで影をつけないのだ。

とまれ今回の旅は、どうしようもなく厳しい現実、旧産炭地の密かな息遣いなどもあわせて眺めることとなった。夕張から歌志内、芦別、赤平と続くエリアは、明治以降の日本のエネルギーの供給地だった。殖産興業・富国強兵の欠くべからざる大地であった。

林道脇に石炭が露出していた。九州からやってきていたオフィシャルの男性(大分市56歳)は、ひとかけらをポケットにしまって、林道を下ってきた。その黒い石の艶は美しく、神秘的でもあった。まさにブラックダイヤモンドだ。

やがてなくなるもの、それは何もこうしたものに限らない。ある人と話した。

ある人「過疎化が酷い・・・」
ボク「そーですか、それは素晴らしい」
「どーいう意味ですか?」
「東京みたいになりたいんですか?」
「いやそんなことありません」
「じゃあ1万人くらいの町になって、駅前に飲食ビルが建って、消費者金融の看板が乱立する!見たいなのを望んでいますか?」
「いえ」
「じゃあ、なにもない、ただ美しい丘陵と牧草地と、もちろん幾分不便には違いないけど、この美しい大地が残されていくわけです」
「そーですね」

モンゴルの大地でいつも感じていたことだ。

きょうの一枚
幌延のSS、森を抜けて出てきた村田選手。手ごたえを感じながら走ってる。このあとの直線を一気に加速する。

2007/07/18 (水曜日)
まあ日本中で、ここだけしか晴れてない!という北海道で過ごした1週間、そしてラリーの4日間は夢のような日々でした。

一方で大雨の被害ならびに、新潟沖地震の被災者の皆様には、心よりお見舞いを申し上げます。一度はこうしたことのレスキューとして、出来ることをやろうと立ち上げた団体もあったりして、災害のたびに忸怩たる思いが募ります。というか仰ぎて天に愧じるばかりです。

さて、北海道4デイズ。芦別市をはじめとするいくつかの自治体にはご協力を頂き、また各地のこうした競技運営団体のお力添えもいただきましたこと、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。特に大会会長をお勤めいただきました、林芦別市長様、ならびに北日本自動車工学専門学校校長 齋木先生。本当にありがとうございました。

今回は、こうした競技スタイルの構築のため、春木編集長のご尽力で新しいスタイルのネットワークが生まれました。またさらに飛躍していく予感を強く感じずに入られません。こうしたイベントの開催には、驚くほど高いモチベーションが必要です。そしてそれを維持し(燃やし)続ける燃料が必要になります。その燃料は何かと言うと、参加される皆様の溢れんばかりの情熱であったり、走ることの歓びとかといったものを共有できたと実感することにほかなりません。確かにディティールにおいて改善の余地は少なくありません。しかし、こうした長距離長時間のクロスカントリーは、困難だけれども大きな満足感が得られるものです。

また北海道の大地でお目にかかりましょう。いやモンゴルでも、いや四国ででもです。われわれは、皆様との共通の思いを燃料として燃やし続け、ガストンの遺した言葉「to be continue」続けることの偉大さをかみ締めながら、いまだ長い道のりを歩くこととします。

きょうの一枚
長い道のりといえば、西安−巴里。そのお尻を支えるノグチシートスペシャルを装着。ボクのとカオルサンのマシン・・・なのはいいのですが全く足が着かなくなりました。お陰で膝の曲がりは少なく血行不良エコノミー症候群からは免れられそう!!


2007/07/10 (火曜日)
実はR1200GS ADVENTUREのうちの1台は、岩手まで走って行きました。北海道への行きがけの駄賃ですが距離は1300km強!!夜、出発したのに朝には到着していました。それも豪雨の中。ライディングしたのはSSERのオフィシャルで、ともに西安-パリを走る予定のカオルさん。長年バイク屋さんと農業をしています。ちなみに無農薬のカオル米は、知らないでしょうがTBIなどのエントラントは、美味しく頂いているはず。

そんなカオルサン!朝ボクが会社に行くと電話あり!
「着いちょるけん」日本語訳「既に到着していますので、安心してください。」

ボク「調子はどー?」

カオルサン「イヤー素晴らしい。乗るほどにスピードを出せば出すほど素晴らしい」

ボク「スピードを出せば出すほどだあぁ??」

と、いつもは夜8時30分には寝る!というカオルサンは、GS-Aの走りに魅了されて、なんと徹夜で走りきったとです。そして、きっと札幌行きの電車の中で、泥のように寝ているところが想像がつきます。まあ、北海道ではカミオンの運転手!のんびり楽しんでくださいな。

きょうの一枚
事務所の中のBMWたち・・・
シートの無い2台は、ノグチシートにスペシャルオーダー中!!なんか凄まじいことに、なっています。


2007/07/09 (月曜日)
よく降る雨のおかげで?コマ地図書きが終了・・・あっこれはBTOUのことです。今週はいよいよ北海道ウイーク。今日先発の第一便が出発予定です。明日、明後日と3便にわたって北の島へ向かいます。少し西日本の天候が不順なのが気がかりで、農業従事者のKさんには後顧の憂いがあるのでは?と心配しています。とまれ、この鬱陶しい梅雨空を忘れるほどの快晴を期待していますね。週末は芦別市A-TECでお目にかかりましょう。素晴らしいルートと参加者!開会式には北海道警芦別署々長もご出席賜りますぞ。とにかく最重要課題は、無事故無違反。そういえばTDN2002、スタート直後の国道でわれわれが目にしたものは?いやもう話しますまい。

さて北の次ぎは西です。西安行きの船積みも、いよいよ今月27日に横浜で開催されます。ホテルでの昼食懇親会を兼ねたミーティング・・・も予定されていて、TV関係者や広告代理店の方など賑々しく開催されます。タイヤサポートには、コンチネンタルが決定!!して、この日に搬入の予定です。見学希望の方はメールをください。マシンも本日、全車勢ぞろい。慣し運転がはじまります。

ボクは北海道から帰るや、再び西安です。暑いらしいので、少し体調維持が気になるほどのハードスケジュールではありますが・・・帰国翌日には横浜までGSの自走。楽しみと苦しみは、相半ばしてまさに人生の醍醐味といってしまえば・・・。

きょうの一枚
舞い降りたアドベンチャー3台。なんともはや壮観ではあります。HP-2と80G/S・・・事務所の中はボクサーツインの進化の博物館状態。


2007/07/06 (金曜日)
「自動車は、どうする?」

NEW X5がやって来た。いや正しく言うと、週末の発表会用の試乗車が通りかかった・・・もちろん乗っている人は知り合いだから、ちょっと寄っていくくらいのことは出来る。ということはちょっと乗ってみたということかもしれない。・・・物議を醸すといけないのでグレーな表現!

「オー!素晴らしい。これください。」

と言うのを飲み込むためには、しばらくの自制心がいるほどだ。この傾向は今の時代のどのクルマに乗っても言える。つまりボクタチの高尚なつもりで、その実は安っぽい、マニアなつもりでいる一番くみしやすい消費者心理なんて、研究され尽くしているのだろうと思う。赤子の手をひねるような!だ。マーケッティングの悪魔だ。自動車産業はそんな領域に踏み込んでいる。

それにしても、自動車は進化を止めない。何もかもに気がつかないうちにパワーアシストが付き、そのほとんどが節度良く調律されていて限りなくフリクションフリーを感じる。または若き元気な頃の力にみなぎっていた頃を思い出させる。ガンダムスーツを着ているような気がする。ボンネットはアルミなんてのはもちろんのこと、フェンダーはプラスチックだ。新しいM3はルーフもカーボンだ。なるほど、自動車は回春剤というか装置なんだ。もう、あきらめていた団塊の世代に、よからぬ夢を見させる。んでもって、わずかな退職金を奪い取ってしまうのだ。ボクは無いけど、退職金って。そういえばカメラもオーディオも、復権を遂げている。しかも「オオーッ!」なプライスタグがぶら下がっている。

きょうの一枚
こんなのがやっぱり一台ガレージに居ると、心は穏やかではありませんな。


2007/07/05 (木曜日)
「ごめんなさい、大げさに書きすぎました。」

どーもボクのOVの筆がオーバーテイクしてしまったようです。お詫びして訂正をします。豪華リゾートホテルというのは、言いすぎでした。でしたが、しかし豪華リゾートホテルって、あなた!確かに前を通ったりはしますが、泊まるなんて・・・それはモンゴルのプリミティヴな試走から帰ってきたばかりのボクには・・・だってバヤンホンゴルのホテルじゃ「あのクラシックカーラリーの方々も数日前に泊まられましたよ。」と、どこかの国の殿下も、大富豪のご夫婦も泊まったんですあの豪華バヤンホンゴルのリゾートホテル・・・ただしトイレは無い部屋が多くて、あってもリスクの高いトイレ(いや水は流れなかったり)唯一、一部屋だけはシャワーがあるのですが・・・そんなホテルで「いやーやっぱりホテルが良いねえ」なんて帰ってきたボクがですよ・・・しかも初めてのTDNの志布志の新築の丘の上のホテルの(さて何回「の」があったでしょうか?)絨毯と壁紙を完全に破壊し尽くしたTDNエントラントのことを思い出すにつけても・・・そのホテルは泣く泣く絨毯と壁紙を総とっかえ!したのです。ボクはエントラントの見識を疑ってはいません。安心して信頼しています・・・ただ極限状態のそのあと・・・のことだけは、想像力が欠如してたとです。

ところで、私信ではありますが、北京−パリ・モーターチャレンジの訳者でもあり、かつ北海道4デイズのエントラントでもあるW林さんに、以下のお便りをこの場をお借りして・・・。

前略、W林さん。想像力の豊かな貴兄のこと、あの北京−パリの訳文を読みつつ、こうした高尚な趣味を楽しむ人のウイットとユーモアは、あなたの文章なくしては伝わらなかったでしょう。その貴兄が、こともあろうに豪華リゾートホテルなどにわれわれが言う「豪華」の意味が間違って伝わるとは、誰が想像できるでしょうか。

やわらかな草のベッドは、コンラッドのそれをはるかにしのぎ、朝露で重たく滑りの悪くなったファスナーを少し下ろして眺める朝日は、アンダマン海に落ちる夕日を眺めるアマンリゾートのコテージなんて、はるか足元にも及ばないではないですか。

W林さん。ああそのクラブメッドも嫉妬するばかりのナント豪華で贅沢な旅。その豪華さで言えば、残念ながら北京−パリを走る殿下たちには、少しばかり及ばないかもしれませんが、実に豊かで、つまり豪華で、時々「ムッ」とはされるとは思いますが、一生の心の記憶に残る最高のひと時であると信じてやみません。それでは、彼の地でお目にかかることを、心より楽しみに致しております。なおシュラフとテントはくれぐれもお忘れにならないように。   草々

「そうだ、カメラを買おう」

モンゴルの試走の写真館を見ながら考えた。やっぱりカメラがモノ足りん!!いまさらフィルムカメラを持ち出してもなあ?でもデジタルカメラのプロ用機種はなんか、ややこしすぎる。でも買おうかなあ?広いレンズも欲しいなあ。描画力のある広角。たおやかな北海道やモンゴルの草原。タクラマカンの奥深い世界。敦煌の世界。・・・ああ、でもレンズ高いなあ。でもカメラが道楽だったら、きっとスゴイ機種を山のように持ってるんだろうな?良かったよカメラが趣味じゃなくて・・・それにしてもニコン、だいたい大きくて重たくて、どーしたらいいだ


ろう。そーだ、ライカにしよー・・・と思ったら。

さて、いったいボクのカメラはどうなっているでしょう??
と考えていたら、やっぱり安いので機動力のあるのがいいかなあ?

なんか、フィルムカメラがもどってきたような予感。だってこれらのデジタルの
上位機種は、おじさんたちの手には負えない。

某カメラマン「フィルムカメラよ。ついでにネガで撮ったら?」

ボク「うーん、なんでネガなん。」

某カメラマン「プリントでスキャンしてデータいじって入稿よ・・・」

そういえば某カメラマンは、オーディオもレコード派。ややこしいニコンのデジタルカメラを持ってきて「ちょっと触ってみたら」だって。

ボク「えー、これくれるの。ありがと。レンズはどれ。」

でもくれませんでした。どの位おじさんカメラマンがデジタルカメラで苦労をしているのか?!というお話に終始していました。

きょうの一枚
多分ですがコース制作中の方が、おもむろにカメラを向けて撮ったのでしょうね。アングルからすると右ハンドルのクルマならナビの手によるものでしょう。なんとなく北海道の夏・・・を表現しようと思ったに違いありませんが、なんて言うんでしょう路側を示す雪国独特の表示器がなければ「四国だー」とかってもわかんないかもですね。


2007/07/04 (水曜日)
「たぶん日本のサラリーマンは夏のボーナスで、投資信託で外貨資産を買ったんだな!バカモノメ!!」

円安が歯止めが利かない。国際決済銀行が年次報告で「最近の円安は異常」との認識を示して、少し回復の兆しを見せていたのに、ボーナス月になるやまたまたドル買いが加速してる!!のではないですか??

今回は過去最悪の円安での開催となったモンゴル、ガソリン高、ドル高に加えてモンゴル自体の成長による物価の高騰とトリプル苦のなかで、頑張らないといけないのだ。どーしてこんなに円が弱くなったのか?それは偏に低金利が長引いたためだ。まあ仮にモンゴル関係に払うドル建て分が100万ドルとしますね。1995年第1回大会は1ドル80円でしたから、まあ8000万円で調達が出来たということ。んで今125円くらいだとすると1億2500万円必要なわけで・・・その差額は4500万円!!なんかこう、ふて腐れたいやね。

某銀行も(あ。いやスーパーカブの某銀行ではありません)外国の投信を売りに来る一方で「円安を何とかしないと、地元の中小が厳しい」と、訳の分からないことを言う。そーだよね、原材料の調達コストが跳ね上がっているのか?

大手の輸出企業は、円安に守られるかのように空前の最高益を更新し続ける。何かが間違っているような気がするが、ボクも輸出関連事業者なら、そんなことは気にもとめずに「イケイケー!」と進軍ラッパを鳴らすのでありましょうか??自国の通貨が弱いと儲かって、強いと損をする・・・というのもいかがかなあ?

一方で自給率はここまで低いのか?!と目を覆いたくなる日本の食糧事情・・・海外で円安ももちろんあるのだが、買い負けをし始めている。どこにってそれは中国にだ。やがて食糧危機は戦争にまで発展するだろーね。それは有史以前の戦争のパラダイムにもどるような気がするのだが。正しく食べ、適切に食べ、足るを知ること。

あっ北海道4デイズの言い訳ではありません!

きょうの一枚
北海道4デイズ試走中のダートの脇。何かと問題のエゾ鹿なのですが、豊かな動植物の濃度としては、まさに類稀(タグイマレ)なと表現しても良いでしょう。豊かな自然がバランスよく、それはまたこれからの人類の姿を映す鏡でもあるでしょう。


2007/07/03 (火曜日)
北海道がやって来た!!コマ地図も無事に入稿!SSERPRESS・・・逆さまから読んでもSSERPRESS!!も校了し・・・てないか!?でね、岩手から西安に参加する方のリクエストに応えて、R1200GS-ADV.をなんと自走で慣らしを兼ねて走っていく!!・・・ということを今月最大の楽しみにしていたのですが、

「オーマイガッ!」

結局スケジュールが許さず、急遽ピンチヒッターを立てることに。北海道にカミオンを回送する予定のカオルさんが、代走で千数百キロを一気に走る!・・・壊さんといてね。でその足で北海道!ボクは別便で北海道!!そんな北海道4デイズから帰ったら、またすぐ西安。ボクのADVは、慣らしができないではないか??という不安。

そうそう横浜に搬入するときに慣らし+1000キロ点検・・・なんかタイトロープだなあ?イチカワサン、タノンマス。タイヤ&オイル交換もね。

そんなことよりボクのパスポート・・・ビザを取るための時間が足りんらしい・・・ボクだけ国境でオイテケボリ。

さてその北海道・・・なんと4日間の行程のうち3泊が豪華!かどうかは知らないけれど♪ホテル!!そのうち1泊はリゾートホテルなんだそーな。どーなっているの??とボクは言いたい!!のだけど元来がホテル好き!キャンプ嫌い!なボク。

「イージャン!イージャン!」

と経済感覚の麻痺しきった頭で、考えています。だって、もうボクは今年になってTBIの試走と本番、モンゴルの試走とで普通の人の10年分のオートキャンプをしているのって。


きょうの一枚
北海道4デイズのルート上にある映画館?ではないようだけど。黄金の銃を持つ男、有名なあのホラー俳優クリストファー・リーに凍りついた?で彼はイアン・フレミングの従兄弟だったって知ってた。で、ボンドガールは誰だっけ?あー、それにしても20世紀はヨガッタなあ。いや、ちょっとバイク停めて観て行こうかね。


2007/07/02 (月曜日)
未明に凄まじい音がして雷鳴がとどろき、雨が降り風が巻き、それは突然の嵐でした。水不足の四国も、これで一安心なのかもしれませんが、それにしてもその降り方はなあに??というくらい。九州北部も降っているようなので一安心ですが、博多山笠は大丈夫なのでしょうか。まああちらを立てればこちらが立たずというところでしょうが、このたびは降雨が恵みの雨のようです。しかしひとたび度を越すと土砂災害・・・テレビでの注意勧告も「ここ数年で最も・・・な・・」という不思議なコメントに変わっていますが、「ここのところ毎年のような土砂災害の危険性が・・・」というふうになるような恐ろしい気がします。

モンゴルは今年は緑が濃いと予想されていたのですが、6月に雨が降らずに緑が枯れてきてるという情報も・・・試走の時は例年になくのんびりと草を食む牛や羊たちを見て「雨が降り緑が出ると、かくも動物たちは幸せそうなのだ・・・」と思ったものでした。一方中国タクラマカンでは、数十年ぶりの雨。良く使われる言葉で「まるで砂が水を吸い込むように・・・」と何でも良く吸収することのたとえで使われますが、それはオタクの植木鉢くらいで、砂漠は水を吸わないですね。

と、まあ何事においてもほどほどでかつ「いつもどおり」なのが良いのではないかなあと思う今日この頃。窓の外は熱帯地方のような降り方の雨が、断続的に続いています。クルマに乗ろうとしたらザーッ。降りる時になるとまたザーッ。これもまたマーフィーの法則でありましょうか??北海道とモンゴルと西安-パリだけは晴れて!!って贅沢かなあ??

きょうの一枚「兵馬俑」
なぜ今日この一枚を選んだかというと次のNEWS

「始皇帝、「ピラミッド」造った? 陵地下で建物見つかる
2007年07月02日14時08分
中国陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝陵の地下に、高さ約30メートルの建物が埋まっていることが、同省考古研究院の調査でわかった。新華社通信が30日伝えた。 紀元前3世紀に造営された始皇帝陵には「地下宮殿」があることがすでに確認されているが、全容は明らかになっていない。今回判明した建物は、この地下宮殿を形作るものとみられる。建物は上部が狭く、下は広い階段状になっているといい、最上部の東西の長さは約168メートル、南北の長さは142メートルもある。 同研究院は02年から、始皇帝陵を掘らずにハイテクを駆使した探査方法で地表から調べている。(アサヒコム)

さて、「西安5日間」という松山発着の超スペシャルなやつがあるのでオタノシミニ