Organisation Voice 2014/11

 

 



2014/11/25 (火曜日)

「初心に、還るべし」

何事にせよ、取り組もうと決意した時のあの思いを忘れてしまっていることがある。
あの頃の思いこそが、夢だったはずだ。
言うところの「初心、忘るべからず。」だ。

しかし、時にこれを忘れる。
独立して業を起こそうと思った時の思い。
その思いは毎日毎夜の徹夜さえ厭わなかったではないか。

パリダカに行こうと決めたころの思い。
その思いは大量の企画書を背負って、真夏のアスファルトに揺らぐ陽炎の中を、
来る日も来る日も、スポンサー獲得に駆け回ったではないか。

そんなことならいっぱいある。
いっぱい新しいことに取り組んできた。
「そんなの無理だ」
と言われるほどに燃え上がった。

新しいことはやがて、普通のことになり
普通のことは退屈なことになるのだ。
しかし、本当にそうか。
こんなに豊かで刺激に満ちた人生もそうないのではないのか?
そう思いながら今朝は事務所の鍵を開けた。
ボクが一番早いのだ。

NHKの朝の連ドラなんて観ないのだが、
モンゴルにいるとNHKのワールドプレミアムで、見るようになるのだ。
そして今朝、ぼくはドキッとした。
「日本人にはできない・・・」
なんだとお。

20年もその少し前
「日本人で初めての砂漠のラリー(いわゆるラリーレイド)を作るんだ。」
と言ってた頃。
パリでは
「日本人がラリーをするらしい」
というわさが流れた。それはFIMに申請を挙げたからだ。
「それは無理だろ」「日本人にそれは出来ない。」
そういうふうに言われていた。

さらにその前は、ボクは四国からパリダカに出ると言った時。
TBIをやろう!と言った時。
出来ない理由なら、いくらでもあった。
「どうやって1週間のコマ地図を作る?まあいい、仮に作ってマップホルダーがない!!」
「無ければ作ればいい。」

そうだカーボンホイールにも情熱を注いだ。
炭素繊維の自動車部品研究会を産官学で作った。
もう15年以上前なのか?東レのドアを叩いた。
何度も断られた。
ボクは「10年後日常を走るクルマは、軽かハイブリッドかディーゼルだけになる!
その時には軽量化は最大の課題になっている。」と。
予言は当たらなかったけど遠くもない。
「中国に日本と同じモータリゼーションが来たら地球はあと2個はいる。」
そんなに急激な発展は無いよ。とも言われた。
まあ、頁岩があるから100年は大丈夫。。
「では二酸化炭素はどうなのか?」

議論は熱かったし、面白かった。2020年研究会なんてのも作った。
2020年の全地球的な食糧難問題をどうするか!?などという、
とんでもない議論が交わされていた。オマエハセイジカカ?

ボクたちのカーボンの研究は、そののちに違うカタチとなって世に出始めたようだ。
でもこうしたレーシングなイメージの高価なものではなくて、短繊維の熱可塑で
1分で1本、重さ1kgで単価1,000円でできるものを!目指していたはずだ。
カーボンを意匠で使うのは、もういい加減にしないといけない。
と15年前に言い放っていた。

なんて考えるうちに熱くなって、初心に戻りつつある今日。。

きょうの一枚
ネットで拾ってきたカーボンホイール。。。うーん。

 

 

 


2014/11/19 (水曜日)

「イタリアからの手紙」

もうすぐ師走。
ほんとうだろうか?1年は、こんなにも早く過ぎ去っていたのか。。こんなこと
なら人生なんて、居眠りしてたら終わっちゃう。
特に最近は眠たいから、起きてる時間なんて、もうそう残されてないぞ。。
高倉健も鬼籍に入った。
1988年の時のパリダカで撮影中の姿を見かけた。
考えてみれば、あの役回りが実は菅原さんの今の姿かもしれないなあ、と考えて
いまさらながらに菅原さんに敬意を表してるボク。

健さんは、日本人の唯一頼れるカミオンのドライバー、そんな役だった。ということは、
実は菅原さんは(あの時はエキストラのドライバーとして出演していたらしい)あの高倉健を目指して生きていたのか?とさえ思う。
カッコ良すぎる。

で、まあ短い人生だから先を急ごう。
2015年。31年以降の第3世代のSSER ORGANISATION、どういう性分か!?またぞろ不可解な活動を始めている。断片的にしか語れないのは残念だけど、あの30年前の夜の闇に潜む不思議な昂揚感に挑んだ時の感覚に似ているから驚きだが・・・

その一つは、ここのところのイタリアのイベント主催団体とのメールのやり取り。
これは1987年の春にTSOにレターを送った時の気分に似ていた。
あの時SNSやメールなどがあったなら、なんとも儀式的な部分が欠落していたかもしれない。

いまはもう「ポチリ」という、一瞬の手続きでものを決するのだそう。ボクは、自分の書いたつたない英文を何度も読み返し、何度も住所を見直して、自分の足で郵便局へ行って、さらに浮世絵か何かの切手を選んで、拝むように係のおばさんに手紙を差し出した。

ボクの人生の大きな挑戦のひとつは、そんな儀式的な心の動きからはじまった。
1か月もしたら、レギュレーションの入った分厚い封筒が届いた。
鼻に近づけて、その郵便物の匂いを嗅いで、
パリのオフィスでボクの宛名を書いたであろう女の子のことを想像したりした。

さて、それはともかくいくつかのNew Eventがいよいよ本格稼働期に入った。
忙しくなるぞー!!っと。

間もなく発表できそうなので、このくらいでお許しください。
えっタイトルのイタリアからの手紙とはなんのことか?答えはまた今度。

きょうの一枚
昨日は天空のトレイルに居ました。素晴らしい時間。霧氷がいっぱいだったので、
よしあとで撮ろうと思って忘れてたら、まさに霧散してましたがな。


2014/11/07 (金曜日)

 

「たしかに、小人は閑居しては不全を為すなあ。。」

ボクはいわゆる論語のファンではないんだけど、いつの時からか
「われ十有五にして学に志し 
三十にして立ち 
四十にして惑わず 
五十にして天命を知る 
六十にして耳順い 
七十にして 心の欲する所に従いて矩を踰えず」

というのを、とても意識してきた。
15の時に学を志し、というのは全くなくて「岳」を志したときに15歳だったから勝手に「われ、15にして岳に志し」と、山に登る日々に明け暮れた。時間がない時は家の近くにある岩場のゲレンデを登ったり下りたり。。

まあその話はいい。
30歳にして、会社を辞めて独立した。なるほど「立つ」とは独立のことだったか?
と不全な事を「立つ」と考えていたボクはここで少し大人になった。
40歳の時にモンゴルでのラリーをスタートさせた。
当時、仕事は広告業とラリーの主催とが、二足のわらじのようになっていた。

広告業を本業と呼び、ラリーなどの活動は趣味の延長だが、仕事として取り組まなければ存立しまい。と考えたのだ。そしてある日のこと、本業の大勝負!これが決まればラリーなんてやってられない!という日の決定的な朝。

ふと
「40にして惑わず」というフレーズが降りてきた。

「自分は迷ってるのではないか?」

その思いが、葛藤から解放された一瞬だった。生活苦はここが分水嶺であろうか??
不惑の歳ならぬ、不惑の時だった。

広告業なんて、みんなやってるし、コンペで負けても勝っても、完成してくるものなんか「あれ、落ちたはずのうちの案?」なんてことに嫌気がさして「コンペはしません」「じゃあ、なんでグローブコンペティションなんて社名なんだ!?」

「あっ、いやそれは。。。」

で10年も経った50歳のころ。
モンゴルも10年目の2005年ころかな?
「北京をスタートにする多国間をまたぐラリーにする!」
とか息巻いて、北京やら内モンゴル周辺に不毛で困難な交渉を展開する。
がぜんパスポートは中国のハンコだらけになった。

悩んでた。あるべき理想が遠かった。
2007年は、1907年の北京-パリの100周年だというのに。。。

そして、やがて北京からパリやローマに行く旅に出る。仕事をほったらかして。
ロプノールやアラル海や、チョモランマのBCやらで
「やっぱりこれがボクの天命たる仕事だろうなあ」
とつくづく考えた。
孔子は、ともかくだけど・・・

そして迎える還暦、、もう2か月ばかりだけど
それは「耳したがう」つまりやっとこの歳になって人の言うことに耳を傾けるようになるのだという。なるほど「少しは、みんなの意見も聞いてみるか」と、そう思うに至ってるもの。

で、あと10年後の70になれば、どんなに好き勝手をしても則を越えないという。
菅原さんを見てると、案外そうでもないようなそうでもあるような。
迷惑をかけるのはただただ、記憶力の不確かさで
「そんな話は聞いてない!」
で、結構逃げられる。
まさに小人閑居状態の本日は暇なり。

きょうの一枚

ブルーアイランドの海、夕景。